逆転の大中国史〜ユーラシアの視点から

文藝春秋 2016 楊 海英c

ユーラシア史を別の観点から知りたくて手に取った。モンゴル出身の著者が書いておりChinaの相対的な位置づけに説得力を感じた。

本の構成

 序章「中国の歴史を逆転してみる」では、中国四千年の歴史は想像上のものとする一方、漢文明は中原を中心するローカルなものであったとする。異民族に侵略を受け続けたという被害者史観からくる不寛容な中華思想が民族問題などを引き起こしているという。シナの歴史をたどると、国際的で栄えた王朝である随、唐、モンゴル、清などはいずれも異民族による征服王朝だった。またコンプレックスから来る自文化中心主義は現実の理解も曲げてしまっている。また中国を理解する上では「文明の海洋史観」での見方が有効と考える。第二地帯の遊牧民族には軍事力があり動物を管理する技術があり、さらに情報力もある。加えて有力な集団が現れるとそれに従属する流動的で開放的な組織力がある。これらがパワーとなっている。
 また海洋文明で選考していたのはイスラームが支配する環インド洋地域と、中国を中心とした環シナ海域であり、西欧も日本も周辺地域だった。またそれに対して西欧は産業革命により近代世界システムを構築し、日本は鎖国体制で勤勉革命で自給自足体制と生産理技術の向上を実現した。この次期、明は海洋アジアの盟主とあれた可能性もあったが、倭寇の取締に汲々としていた。その次期、満州南部で毛皮や薬用人参といった高額の物産の売買で強大な利益を得ていた武装商人集団のリーダーが女真族のヌルハチだった。かれらは放牧・農耕どちらも行う商業民であったが、貿易の儲けで武装を強化し、明王朝を倒すした。近代になると日本が近代化を成功させて、中国の劣等感を助長する。中国は負けじと経済発展を推進しているが、これを成功させるには多文化からの影響を許容するような国際的にひらかれた社会である必要があるとする。

 第一章「漢民族とはなにか」では、、筆者は中国の南モンゴルのオルドスで生まれたモンゴル人であるが、モンゴル人以外の人に何人ですか?と聞くと、漢民族とは言わず、漢人ですという答えになった。この漢人というのも国民国家がいうところの◯◯人とも違う。国家の概念も希薄で、宗教的な統合もない。中国語でもない。中国の標準語は1918年の五四運動で作られた歴史の浅いものだ。彼らを繋いでいるのは漢字である。この漢字システムは異なる言語を話す人々の間で意思の疎通ができる非常に強固なものである。逆の言い方をすると漢人は人種も言語も様々である。青い目と金髪の漢人もいる。筆者があった広東人はマレー人に近い肌も黒くて背も小さい人たちもいて山地人と自称した。揚子江を堺にして南側の漢人は南方人と自称するが、彼らはナニヌネノが発音できずラリルレロになってしまう。これは中国語のアルタイ語化が進んだせいだという。モンゴル語、テュルク語、朝鮮語、日本語、さらに満州語などのツングース語もアルタイ語でである。これらではrが語頭にくることが少ない。日本人もラリルレロをrで発音するようになったほは明治以降である。rやlといった子音が語頭にくるのはタイ系やポリネシア系の言語で、南方人のナがラに変わる理由は南方人に少しだけタイ系の発音の特徴が残っていて、南方人はn/r/lの区別がつかない。漢字システムはこのように多くの人を取り込む強固なシステムである。逆に漢字システムに取り込まれないように漢字を使わずゲルマン人由来のルーン文字を使わなかった突厥碑文の例もある。
 漢語のアルタイ語化は黄巾の乱で古い漢人がかなり減ってしまったためであるという。五胡十六国時代の匈奴・鮮卑などの五胡はアルタイ語系だった。また河というのはアルタイ語系の言葉で北の黄河などで使われ散るが、南に行くと江というタイ語系の言葉が長江などで使われている。
 言語学や考古学の研究からわかっているのは黄河中流域の中原にタイ系の夏人がいたとされており、紀元前13世紀ごろ満州・東北から狩猟民族の殷人が入ってきて、さらに西から遊牧民の周人が入ってきた。これあが中原で成立したとされている王朝である。漢字が成立したのは3000年前だが周の混乱で漢字の原則が乱れ、秦による漢字の統一が必要だった。ここでの注意はタイ系の夏人というのは現在のタイから来たのではなく、中原に住んでいた夏人が異民族に押し出されて南へ移動してタイ人になったのだ。漢人は中原で緩やかに形成される征服者たちではあるとは言えるが、漢人や漢民族という概念はじつは頻繁に変わっている。184年にはもうご百万人弱しかのこっていなかったプロト漢人があとから入ってきたアルタイ系の言葉を話す人達と混血して、新しい漢人になっていったからだ。次に漢人が大きく形成されるのは随と唐だが、両者とも鮮卑系の国家でアルタイ系の言葉を使う人たちが多かったために、漢語のさらなるアルタイ化が進んだ。また雲南省のトン族はポリネシア語系の言葉を話し、台湾にもポリネシア語系の先住民がいるが、両者ともポリネシアに行かずに陸にのこった民族と考えられる。
 このように漢人によって黄河文明が築かれて、勢力を拡大していったわけではない。中国は夏、商、周、秦、漢を継承国家として考えるのは無理があり、漢民族に周辺民族が同化したというよりも、お互いにミックスしたというのが事実であろうという。中華文明が五千年というのも考古学的に見ても難しい。また中原がそこまで富の蓄積ができる土地でないという。また漢詩の中に遊牧民の民謡がはいっていたりする。広東語も上海語も北京語もみな文法が違う。朝鮮もベトナムも日本も漢字圏ではあったが漢語を話していたわけではない。

 第二章「草原に文明は生まれた」では、、、日本は中国へコンプレックスがあるがモンゴルに生まれた筆者は威圧感も畏怖の念のない。モンゴルとシナとの関係が日本とシナとのそれとはまったく違う体。中国はユーラシアの東端に固定された存在にすぎず、遊牧のモンゴル高原からくだったところにある農耕地で、巨大でも強力でもない。筆者はオルドス高原のイケジョー盟ウーシン旗という清朝時代にできた行政区分の出身で、ウーシン旗には重要なシャラ・オソン・ゴール遺跡がある。黄色い水の川を意味し、黄河の支流である。この遺跡からはモンゴロイドの直接的な先祖とみなされているホモ・サピエンスの生活の跡がみつかっており、その新人はオルドス人と呼ばれている。
 中国は近年、中華文明は3つの文明からなると主張するように変わった。黄河文明と揚子江文明、それに草原文明が加わった。黄河文明も揚子江文明も断絶された文明で現代中国の中国人に直接には継承されていない。一方でかれらが草原文明と呼ぶ文明はいまの中国にも脈々とつらなっている。ウラーンハダには新石器時代の遺跡があるが、新石器文明から中国文字文明に連繋する継続性が確認されている。しかし蛮族の地であるはずの万里の長城の北に位置する。これらの遺跡にみられる草原文明は中華文明のひとつであり、現代中国は、その草原文明の継承者であると主張する道をえらばざるをえなかった。その背景にはモンゴル人も中華民族であるとの曲解を強いるワン・チャイナ的な政治的思惑があると指摘する。この文明は遊牧民が作り上げたもので、日本でもほとんどの研究者は放牧文明と呼んでいる。
 本書で「中国」は1911 年以降の中華民国以降の近代中国のことである。シナというのは秦が発祥の言葉で古代インドではチーナと読んでいたり、アラブ地域ではシンと呼ぶ。シンの最後にaが付いたのがシナであり、近代中国の成立以前のあの文明圏を指すのにふさわしい言葉はほかにない。日本の考古学者や東洋史学者のおおくはユーラシア草原を「縦」に分けて考えたがる。モンゴルやロシア、あるいは中国人は「横」に分けて考えることが多い。縦に分けて考えると河はほとんど西から東へ流れ海に注ぐという印象をいだくだろうが、横に分けて考えると河は北へと下っていく。そのためか、シベリアとモンゴルには、地球は太陽の沈む北西方向へ低くかたむいているという神話が伝わっている。「縦」でも「横」でもない第三の分類法を提唱したのは日本人である。名著「文明の生態史観」などでユーラシア大陸の西端と東端における人々の価値観や社会システムが良く似ている事実に注目した。東西両端の湿潤な地域を第一地域とした。第二地域はユーラシア草原であるが、歴史変動の内燃機関と考える。遊牧民は多くの家畜を持っている家が裕福とみなされ、利用している草原の広さや水に恵まれているかなどの条件も重要である。また狩猟採集民族への強い経緯を現している。遊牧民は自分たちよりも長い距離を移動する狩猟採集民はそれだけでも多くの情報を持っている知識人であるとみなす。一方でまったく移動しないシナ人農民のことは自分たちよりも保守的な存在だと考えている。『人は動くもの、山は動かないもの」ということわざが遊牧民の間にある。「移動性を基底においた生活では、累積的な富の蓄積は制限される。このため遊牧社会には極端な階層性のない平等な社会構造をもつ。」
 日本ではゴビ沙漠の名でしられるモンゴル・エレスは、シベリア南部からオルドスにかけてひろがっている。地図で見ると北西から南東へと横たわっている。その西の中央アジアにはまたカラコルム沙漠があり、こちらもはやり北西から南東にひろがっている。これは偏西風によるものだ。ユーラシアでは沙漠を冬営に適した土地と愛されている。文明的に見るとユーラシアの乾燥地にいわゆる世界四大文明が発祥している。またユーラシアの沙漠には豊富な水が含まれているので沙でなくてはならない。著者のふるさとには湖もあったが中国人農民が草原を農耕地に変えてしまい薄い地表が破壊されて沙漠になる。
 ユーラシア草原で放牧がはじまったのは、青銅器時代の紀元前1000年頃と考えられている。青銅器は宗教や哲学の形成にも関係している。シベリア南部にあるミヌシンスク盆地では数多くの青銅器が出土しており、青銅器を製造し、かつ、牧畜と狩猟・漁労を並行しておこなうミヌシンスク文明があったことがわかっている。その文明は出土した僧のちがいと青銅器の特徴により、古い方からアファナシェヴォ文化、アンドロノヴォ文化、カラスク文化と分類することができる。この時代はシナでいうと神話上の三皇五帝の時代から春秋戦国時代に相当する。ミヌシンスク盆地では、シナとは完全に違った文明が成立していた。まず紀元前4000年にはすでに銅石器と馬の利用がはじまっていた。そして紀元前3000年、アファナウェヴォ文化がおこるころに短剣などの青銅器の製造がはじまった。紀元前3000 年末になり、アンドロノヴォ文化へと移行するころ、シベリアのサヤン・アルタイ山脈の鉱床の利用がはじまった。さらに紀元前2000年から紀元前800年くらいになると、新たにカラスク文化が誕生して、青銅器の製造範囲は草原全体そして森林全体へとひろがった。このころにつくられた聖堂の短剣は東は満州平原から西は黒海沿岸まで、広大な範囲で出土している。シナ・殷でも同時期に青銅器はつくられていた。しかし農耕儀礼用の重厚な祭器であり、固定建築の神殿内におかれるような大きく思い物で、ユーラシアで作られてきたものとは違う。またシナでは馬や馬車の使用も遅れていた。
 ドイツの人類学者で政治地理学の祖ともいわれるフリードリヒ・ラッツェルは文化とはその地域に住む人が地理的風土的な影響を受けて作りだすものだとしている。どこかから伝えられる文化があったとしても、それはその土地の基本文化と接触世て新たな混合文化を生み出すという考え方である。文化とは、高いところから低いところへ下げ渡されるものであるという進化論的な考え方とは対立するものだ。オルドスでは双環柄頭の短剣や動物があらそう様子が描かれたバックルなどの特徴をもつオルドス式青銅器が数多く出土している地域でもある。1930年に江上氏と水野氏の二人の日本人考古学者が南モンゴルで積極的に調査した結果である。オルドス式青銅器には炉が見つかっておらず、広漠たるユーラシアのどこでつくられていたかがはっきりしない。モンゴル高原から黒海までのあいだで、高度に意匠化された、ほぼ同じ絵柄のスキタイ式とよばれる帯飾板がみつかっている。考古学者たちはそれをオルドス式青銅器またはスキタイ式青銅器と呼ぶ。肉食系動物が草食系の動物をおそう場面がえがかれていることが多い。また二人の男が取っ組み合いをしている様子も描写されている。カウボーイが幅広のベルトをつけるのには意味がある。荒れ馬に見をまかせていると、内臓が激しく動き、最悪の場合は腸がからみあって、腸閉塞となり死に至る。そうした事故をふせぐために幅広のベルトで内蔵をあるべき場所に固定するのだ。現在、日本の大相撲は契丹起源といわれている。契丹とは10世紀にユーラシア東部にいた民族だが、この帯飾板の存在を根拠に、大相撲は紀元前のスキタイ起源だと解釈できるのではないかと夢想している。オルドス式青銅器は日本でもいくつも発見されている。滋賀県の弥生中期の層から双環柄頭短剣が出土している。朝鮮半島にも九州にもない短剣がなぜ近江にあるのかという謎になっている。スキタイ文化やオルドス式青銅器文化は起源三世紀頃から衰退して、このあとユーラシアは鉄器の時代に入っていく。
 古代の遊牧民は多くの遺跡を残した。その一つがヘレクスルであり、青銅器時代の遊牧民が造影した古墳である。へレクスルはモンゴル語でキルギス人墓という意味だが、キルギスとは古くからシベリア南部からモンゴル高原にかけてくらしていた狩猟・遊牧民で、歴史の表舞台に踊るでるのは9世紀なかば頃だ。古墳に葬られているのはキルギス人ではない。もう一つの古代遊牧民による遺産は鹿石である。高さ1,2メートルの角柱の立石でモンゴリアでは500以上、他の地域でも確認されている。鹿が掘られているので鹿石と呼ばれ、青銅器時代のスキタイ時代以前のものとされている。筆者はこれをトナカイという説を唱える。トナカイ文化圏があり、シベリア原住民や、カナダのイヌイット、スカンジナビア半島北部のサーミ人はほぼ同じ文化を持っており、狩猟採集をし、シャーマニズムを侵攻する。人類拡散は南北2つのルートで東アジアにたどりついている。北方ルートでは西アジアからコーカサス山脈を経て4-5年万前までに南シベリアへ進出していたと推定されている。放牧民は狩猟採集民へのつよい敬意をあらわすが、それは先祖やルーツへの敬意である。いまもなお神に捧げる聖なる供物は家畜ではなく、狩りで捕らえた野生動物であるべきと考える。チンギスハーン一族の歴史を描いた元朝秘史では先祖は狩猟採集をしていたが10世紀か11世紀にようやく草原で放牧に転じた過程がよみとれる。こうした歴史的文化的背景から筆者は鹿石にえがかれているのはトナカイであり、狩猟採集をしえいた尊敬すべき先祖の象徴として刻んだ聖なる符号ではないかと解釈している。また鹿石は何のために建てられたものなのかが、わかっていない。ロシア人を含むシベリアのいくつかの民族は、北の空にかがやく大熊座を鹿と呼ぶ。ロシア連邦のサモヘド族は北極星を鹿に射止められた狩人とする。モンゴル人は北極星を黄金の柱と予備、オリオン座を三匹の鹿と表現する。私は鹿石侵攻は遊牧民の北極星信仰、拝天信仰と関係るすると解釈をこころみたい。シナ人は天について深く思い入れがなかったが、遊牧民は天が9つの層にそれぞれの層に神がすんでいることなどを想像した。

 第三章「西のスキタイ、東の匈奴」、、、家畜の飼育は一万年ほど前のメソポタミアで成立したというのが長年の定説であった。羊から始まり、8000年前に牛、6000年前に馬が加わったとされていた。しかし昨今では家畜の飼育の起源はユーラシア北部の草原地帯ではないかという説も有力視されるようになってきた。遊牧民が利用する家畜は毛皮と肉、乳といった人の衣食住に利用できる羊や山羊と、パワーとして利用でき、運搬に利用する牛やラクダ、軍事に利用する馬に分かれている。遊牧民の軍事的な強さは馬にあり、その優位は産業革命により蒸気機関や重火器が発明されるまで続いた。遊牧民の先駆者は西方ではスキタイ、東方では匈奴である。スキタイは紀元前7紀元前4世紀にかけて現在のウクライナ周辺に、匈奴は紀元前318年あたりから紀元後304年あたりまで中央ユーラシアを中心に活躍していた。スキタイや匈奴は共通点が多く、価値観も共通している。戦闘において形成がふりになるとそこから撤退する。匈奴は西方にもその名をフンとして知られていた。モンゴル人は匈奴をフンヌーと呼ぶ。筆者は家の近くの明代の万里の長城に小さい頃に馬でいったが、簡単に超えられたという。紀元5世紀にオルドスの知に統万城という城を築き大夏王朝を建国する。これは五胡十六国の一つである。統万城は大夏の夏季の都で、長安は冬季の都であった。大夏の始祖である赫連勃勃は匈奴の王族、単于の系統をひく人物である。五胡十六国の王朝のいくつかは匈奴系統の人物によってつくられた。オルドスはシナが秦であったころから五胡十六国時代まで匈奴とともにあった土地だ。中国人はモンゴル人を匈奴とよぶこともある。北部中国の中国人もまたモンゴル人を匈奴の末裔だと理解している。匈奴がオルドスに残した文化はいたるところで見つかっているが、もっとも有名なものは黄金で作られた王冠である。発掘されたのは文化大革命のさなかの1972年だったが筆者の周囲の大人たちはフンヌーの王冠がみつかったと興奮気味にはなしたという。モンゴル民族の先祖とみなす史観は近年、モンゴル国でも内モンゴル自治区でも広がっている。
 匈奴の先に立つスキタイ時代の遺跡としてはロシア連邦トゥパ共和国のアルジャン古墳が有名である。この遺跡からは300頭もの馬が生贄として捧げられた痕跡が見つかっている。この生贄を参加者によって食べられたとみなすなら一万人ほどの人間があつまっていた。アルジャン古墳からは紀元前9世紀から紀元前8世紀のオルドス式青銅器が見つかっている。動物が円を描くように体を曲げた様子があらwされているが、似たものが黒海北岸のクリミアからも見つかっている。スキタイの遺物をもっとも多く所蔵しているのはロシアのエルミタージュ美術館であるが、バジリスク古墳からの出土品も展示されている。代表的なものは馬車であり、東方のシナへ伝わったのはかなり遅くなってからであるが、シベリアでは相当早い段階で西方から草原ルートで場所が伝わっていた。エルミタージュ美術館に収蔵されているシベリア・黒海出土のマスクは顎骨が出っ張っていて、その顔は典型的なモンゴロイドである。ヘロドトスによるとスキタイはアキナケスという短剣を使っていた。古代シナの漢文記録では匈奴が使っていた短剣は径路刀と呼ばれていた。匈奴はフン族と同源説が主流であるが、紀元前318年にシナの歴史にはじめて登場し、西では紀元後453年にフン帝国崩壊が記録されている。オルドスの地で赫連勃勃が大夏を建国したのは407年。匈奴はじつに600年以上、ユーラシアの東と西で均質な文化と文明を醸成する大きな役割をになっていたのである。日本人はこの600年間の中国の元号を暗記することばかりに夢中になり、そのちかくで600年間もつづいた遊牧文化と遊牧文明に無関心ではなかっただろうか。シナの記録によれば、匈奴は野蛮人であり、シナの東方の少数民族の一つであるとされていたが、古代シナの北部だけに存在していた民族ではなく、遥か西方の黒海方面やローマン帝国方面へも大きな影響を及ぼしていた世界的な民族である。モンゴル国の国立歴史民族博物館の展示を見れば一目瞭然だが、モンゴル人は匈奴を自らの先祖だとみなしている。
 道教はアニミズムと神仙思想に八百万の神侵攻を取り入れた宗教である。それを信奉すると不老不死が叶うとされ、非常に呪術的な要素がつよい。哲学的な道士の道教と実践的な民衆の道教があり、民族道教は非常に原始的で悪鬼や悪霊を退治した人が髪になると考えられている。中国や台湾では道教の寺は道観とよばれ、超自然的な水の守り神である龍をかたどったぞうが多く設置される。媽祖も道教でよく奉られている。魔素は航海安全の女神で、十世期後半の福建省の林氏の巫女である。道教が生まれて時代ではシナではすでに人々が専制政治に不信感を持っていた。王朝はめまぐるしく何度もかわり、そのせいで生活が不安定でもあった。その原因を人々は悪鬼や悪霊に求めた。道教が教団として組織されるのは二世紀、匈奴が西を目指した時期に相当する。華北で張角という人物が太平道という組織を立ち上げた。これは人口過剰と困窮を背景に都市貧民層で秘密結社としてひろがっていく。張角は184年に構成員を軍として組織し政府に歯向かって黄巾の乱を起こすが、漢に制圧される。この時代、シナでは儒教の国教化も羽島ていたが、儒教は漢文が読めるエリートのものでしかなく、庶民は口伝の道教だった。遊牧民社会は実力社会であり、平等な社会でもあった。極端な貧富の差も生じない。単干やカガンは選挙によって選ばれる。シナではピラミッド型の権力が存在する。法輪功は、江沢民総書記の時代に登場した道教である。気功で体をきたえて、目指すは不老不死だ。勃興の背景は医療福祉制度の不備と貧困の差である。中国では指導者は自分たち個人の幸福のために道教を利用するが、道教にすがる一般の人々の不満を解決しようとはしない。

 第四章「唐は漢民族の国家ではなかった」、、、筆者のふるさとのオルドスには宥州の版築による城門が残っている。宥州は六胡州の一つで、唐は六胡州を羈縻支配していた。それぞれの部族長に唐風の官職を与えて関節支配するという統治方法である。ウイグル人はテュルク系であるが中央アジアにはカザフスタン、キルギスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャン、トルコ共和国などテュルク系の国家があるが、近代的な国家をもたないのはウイグル人だけである。6世紀ころに草原では遊牧が、オアシス地帯では農耕がいとなまれていた。遊牧民はテュルク系、農耕民はインド・ヨーロッパ系の言語の話者であった。それぞれ互いに依存する関係であった。6世紀にテュルク帝国がモンゴル高原から中央アジアにおよぶ遊牧国家の大帝国を建設したが、その保護の元、ソグド人は積極的に東西交易に勤しんだ。テュルクにはオテュケンの地から発祥したとする伝説があり、北史・突厥伝にも「可汗恒にオテュケンに拠る」とあることからオテュケン山の具体的な場所を特定しようと一生懸命努力してきた。モンゴルでは語源的には女性の秘部を表し、母なる大地という意味もある。またテュルクには先祖が狼という伝説があり、モンゴル系民族も自分たちは青い狼の子孫と考えてる。西方からイスラームが伝わってくるが農耕民がまずイスラーム化し、その後放牧民がイスラーム化される。一方でテュルク語はソグド人、オアシス民、東トルキスタンの東にあったシナ人の植民地などに6世紀ごろに広がりはじめ10世紀に完成する。
 552年アシナ氏を中心とするテュルクが当時モンゴル高原の覇者であった柔然をたおし、テュルク帝国を作り上げた。初代の君主はイルリグ・カガンで東は渤海湾から西はカスピ海までの大帝国を築いた。これがテュルク第一帝国である。しかし内紛から583年にモンゴル高原を本拠地とする東テュルクと中央アジアを本拠地とする西テュルクに分裂した。そして7世紀にはどちらも唐の支配下に置かれ、7世紀半に六胡州が置かれた。しかし682年にテュルク系の人々はソグド人と連体し、テュルク王家のアシナ氏を擁して唐から独立を果たし、モンゴル高原から南モンゴルの陰山山脈にかけて祖国を再建する。これがテュルク第二帝国である。ウランバートル近郊にこの時代の石碑があり、トニュクク碑と呼ばれている。トニュククとはトルコ第二帝国建設の立役者である。この石碑にはテュルク文字、現在はルーン文字と呼ばれている文字が刻まれている。同じような石碑はウランバートルの西にあるホショー・チャイダムでも見ることができる。ホショー・チャイダムにはテュルク第二帝国の第三君主ビルゲ・カガンの弟にあたるキョル・テギンの墓もあり、周囲に石碑が建てられている。この中にオテュケン山より良いところはないと称賛しているものがある。タブガチに対して警戒を促すような文が綴られている。元々は拓跋は鮮卑系集団の一氏族だったが第5代献文帝まで鮮卑人本来の姓名であったが、次第にシナ風の姓を名乗るように変性していった。随を起こした楊一族、唐を興した李一族、ともに鮮卑系で遊牧民だが、当時のテュルクにとってもはや拓跋は策略にたけたシナ人の代名詞だった。同じ遊牧民でありながらあっさりとシナ化した拓跋を信頼していなかった。北魏の帝室が自らの源流を拓跋鮮卑に求めていたことを明確にしるした内容がゲゲーン河の畔のガシューン・アグイ洞窟から発見されている。テュルクは唐の皇帝をシナ風に皇帝とはよばず、草原のしきたりに則ってテンゲル・カガンと称していた。
 ユーラシア草原のテュルクの人々の精神世界を理解するには石人を知る必要がある。2つの説が対立していて、一つは死者が生前に殺した敵を石人として表現したとする説で、もう一つは石人を試写本人とする説である。前者の根拠として林氏は周書にある記述を参考にあげる。葬式がおわると墓所に石をたて、その石の数は生前に殺した敵の数におうじると書かれている。校舎の根拠は隋書で、死者の肖像は絵画で残されるとも書かれているが、それの拡大解釈である。また石人の近くにはバルバルとよばれる石柱が一直線に並んでいるので、これが周処に書かれている生前に殺した敵の数に応じて立てられる石ではないかと言う説もある。ここまで紹介したトニュクク碑も石人もモンゴル高原のものだが、東トルキスタンにも、当時をしのばせる石人が多く残っている。新疆ウイグル自治区の天山の山中にモンゴル・クレーとよばれる地域がある。ここでも、左手にナイフ、右手に酒器をもった石人がみつかっている。しかもこの石人の下半身にはソグド語による碑文がきざまれていたので、有名になった。この石人はニリ・カガン時代のもので、ニリ・カガンは西テュルクの指導者でカガンの地位に在した人物であり、石人とともにある古墳も本人のものでないかと言われている。8世紀半ばには東テュルクも西テュルクも滅びる。東テュルクはアシナ氏がウイグル氏に支配権を譲り渡すことで、その名がウイグル帝国に変わるだけである。755年には唐では安史の乱が起こる。ソグド系の安禄山と同郷の史思明とともに起こした氾濫だだが9年にも及び、唐はウイグルに助けを求め、なんとか乱を鎮めた。ウイグルは唐を救ってそのまま雲南省にモスクを縦すみ続けた人々もいる。ウイグル帝国の人々は757年にモンゴル中央部のセレンゲ河のほとりにバイ・バリクを作った。テュルク語で富貴・城である。ウイグルが大帝国だったころの東ユーラシアは三大帝国が鼎立していた時代であった。ウイングル帝国と唐王朝、そしてチベット帝国がそれぞれ栄えていたのである。しかし日本ではこの時代には唐との交流が盛んであったことも影響してのことであろうが、唐を過大評価し、当時西にあった大国は唐だけだと信じ、ウイグルとチベットへは目を向けてこなかった。また唐は鮮卑拓跋系の王朝であるから、国際色豊かな国であった。それを物語る分かりやすい例の一つとして、高仙芝という人物は朝鮮半島の高句麗系出身であるが、唐軍を率いて751年のタラス河畔の戦いでイスラーム軍と戦った。このタラス河畔の戦いでは唐軍がやぶれ、イスラーム勢力はソグド人の本拠地であるアム河、シル河地帯をふくめ、パミール以西のオアシス地帯の西半分を勢力圏にした。これによりユーラシアの東西を結ぶ通称ネットワークはソグド人でなくイスラームを信奉する、ムスリム商人が支配するようにかわっていく。そのため、ソグド人やテュルク系のあいだにイスラームが広まっていくことにもなる。また多様性にとんだ国であった唐はタラス河畔の戦いという世界大戦でやぶれ、それが中央ユーラシアがイスラーム化するながれを決定づけ、唐は漢民族を徴用してシナ化し国際色を薄くしていく。農耕民の天敵である自然災害(大雪)にウイグルは840年に見舞われた。さらに内乱もかさなり、これにより国家として力が低下すると、シベリアのイェニセイ河ちかくにすんでいたキルギスが存在感を高めてくる。そしてキルギスはモンゴリアに南進しウイグル知恵国の各地で住民たちと徐々に融合し、それがテュルク化をいっそう進めることになる。ウイグルの人々をうけいれた西の人々はそれまで話していたインド・ヨーロッパ系のことばを放棄して、テュルクのことばを選ぶようになる。9世紀中葉にいたると、天山山脈以南のタリム盆地のテュルク化も一段と進む。唐も9世紀には弱体化し、907年には幕を閉じる。天山沿いのオアシス地帯では宗教も変化する。ウイグル人には後述するマニ教が多かった。しかしマニ教にはテュルク語がほかの言語を一掃したような威力はもたなかった。天山では新しいマニ教と古い仏教が併存したが、徐々に仏教化してくる。今も天山に残る石窟寺院はすべて仏教文化が開花したときのものである。このときに西テュルクではテュルク化とイスラーム化が進んでいた。
 イスラーム化される前の中央アジアではゾロアスター教が信じられていて、長安と洛陽、北京にもゾロアスター教の遺跡が残っている。また中東生まれのマニ教もウイグルの間で広く信じられていた。また仏教も盛んで長安や洛陽にはソグド人に拠る仏教遺跡やソグド語の仏典も残されている。景教も635年に唐に伝えられている。イスラーム教徒は651年に唐へ使者を派遣している。7世紀から8世紀にかけてアラブ軍はアジアの制服をはじめている。タラス河畔の戦いもこの東方進出の一環である。アラブがユーラシアで勢力を強みるとまずは西テュルク支配下のイラン系の人々がイスラーム化していく。その代表例がゾロアスター教を国境としていたササン朝ペルシアのイスラーム化である。ササン朝がなくなり、やがてサーマン朝になるとさらにテュルク化が進む。新疆ウイグル自治区は今も東西の文化が交わる地である。ウイグルのポスターには西域のもじがあるが、古代シナから使われているが、西域三十六国は外国伝に載せられていた。古くからシナの地であったというのは荒唐無稽である。この時代は東では等があり、西ではテュルクによる征服王朝であるカラハン朝があった。13世紀になると西の中央アジアから東に移住したキプチャク人が再び石人を草原に造影した。

 第五章「3つの帝国が鼎立した時代」では、オルドス高原の筆者の生家の近くにはチンギス・ハーンにほろぼされたタングート人の城址があった。タングートとは日本では西夏で知られたチベット系民族の王朝だ。筆者は子供の頃にタングートの逸話としておお様の耳はロバの耳の話を聞いていたが、イソップ童話にも入っていると知って驚いた。十世紀から十二世紀ごろのユーラシアはモンゴル系のキタイによる遼、タングートによる西夏、そして宋という3つの大帝国があったが、そのうちのキタイとタングートという言葉は現代モンゴル語の中に行き続けている。漢人すなわち中国人のことをキタド(単数形はキタイ)といい、チベットをタングートと呼ぶ。なぜ本来の意味と違うように呼ぶのは分からないが、タングートの人がチベット系の言葉を話していたからではないかと推測される。キタイは南モンゴル自治区の東、大興安嶺の南麓に遊牧していたモンゴル系の集団である。その集団から耶律阿保機というリーダーが誕生し、カガンを自称する。907年のことだ。その後、耶律阿保機は916年に大キタイコクを作り、のちに国号を遼とするため、遼王朝としても知られている。渤海国を整復し、その名を東丹国としている。東丹国は930年に大キタイにほろぼされ、キタイは東は渤海国、西はパミール高原、北はモンゴル高原から南は黄河流域までの広大な土地を統治することになった。大キタkの半分は遊牧民で半分が主にシナ人の農民であった。北部の遊牧民は北面官が治め、未アンブの農民は南面官おさめる二重官制というユニークな統治体制を採用する。大キタイ国の滅亡の際に、追われた王子のひとり耶律大石が部隊を率いて北上し、1124年にモンゴル高原で勢力を立て直す。1130年になると中央アジアに移動し、グル・ハーンに即位して西遼を建国する。カラ・キタイとも呼ばれる。
 一方のタングート王朝は感じで表記すると大夏帝国となり、ユーラシアの東端にあるシナの視点では西夏だ。この王朝の誕生には生活で苦しくなた民商に拠る黄巣の乱(875-884年)をきっかけとした唐の衰退がおおいに関係している。唐はもともと鮮卑拓跋系の王朝でありながら、李姓を名乗るなどシナ化していった。現在のオルドス、当時の夏州にいた拓跋系集団のたすけをえて黄巣の乱を千夏する。唐王朝はそれへの対価として、夏州の拓跋集団に皇帝一族と同じ李姓と定難節度使という役職を与えた。節度使はとは唐の周辺異民族にそなえて募兵集団の指揮官であったが、のちに軍閥と貸して自立する者がおおかった。ここに誕生したオルドスの夏州李一族は、タングートらチベット系の集団をつぎつぎにとりこんでいき、巨大化していく。この動きを目の当たりにした大キタイ国は999年に夏州の拓跋とタングートという二大民族からなる軍団の統率者、李継遷に西夏王の称号を与えた。1032年にはその李継遷の孫である李元昊がタングート国を建て国王の座につき1038年には国号を大夏とあらためている。この大夏帝国は1227年にチンギス・ハーンによってのみこまれる。モンゴル時代の開幕だ。拓跋系とタングート系の人々は、モンゴル帝国に吸収され、モンゴル人と融合しながら活躍し続けている。
 宋は960年に南シナで勃興しているが、大キタイ国の支配者のほとんどがモンゴル系のキタイ人、大夏帝国の住民が拓跋系とタングート系とその混血であるのに対し、宋の人々がどういった人種であるかは定かではない。中国はそれを漢人としているが、その漢人は漢の時代の漢人とは完全に異質であると指摘している。それだけ南シナの人的な移動は激しく、つねに今日の東南アジアを巻き込む形で人種間の混合が進んでいた。シナは宋の漢人も漢の漢人とおなじであると純血主義を主張している。現在、香港を拠点とする航空会社にキャセイパシフィック航空があるがキャセイは契丹の意味である。これはキタイはヨーロッパ系の諸言語にも定着している事実をしめしている。
 大契丹国には5つの都があった。契丹は遊牧民であるから、皇帝は季節が変わるたびに自らの暮らす宮張をうつした。都市に定住しないのは遊牧民の伝統であり、のちのチンギス・ハーンも、ティムール朝を建国したティムールも同じように一箇所にとどまらず四方に遠征し続けた。キタイの人びとはいかにもモンゴロイドという顔をしていたことが絵に残されている。キタイ文化が優れていたことは当時の焼き物をみるとよくわかる。キタイの陶磁器の方が宋のものとくらべて文化の面では個性的で、技術の面でも焼き具合も秀でている。キタイのやきものにはのちの高麗青磁風のものもあるが、そのデザインにはシナの農耕文化の要素が希薄であり、遊牧民の影響を受けている。ある器には緑色の魚が描かれているが、この緑色はラピスラズリの使用による結晶だ。ラピスラズリはほとんどがアフガニスタンまたはエジプトからしか採掘されない好物で、それがキタイ人の器に使われているのは、当時からかれらのあいだでは国際貿易があったことの証でもある。元朝の染付は西方のラピスラズリと、中央アジアのイスラーム風デザインと、シナの焼き物の技術が一体化したことによって世界最高級の芸術品とされるが、キタイ時代にすでにその全長となる、東西文明の融合に拠る逸品が生まれていた。キタイでは天文学も発達していたことが墓誌蓋からわかる。内モンゴル自治区のバーリン草原の慶州には慶州釈迦仏舎利塔、俗に慶州白塔とよばれる美しい仏塔がたっている。これは契丹の皇后が夫の追善供養のために建立したもので、1049年に竣工したものである。おそくとも17世紀中葉まで慶州一体は草原の仏教センターのような場所でありつづけた。北面官がおさめていたモンゴル高原の東部には建築士ではおなじみの、キタイ式レンガ塔とよばれる密檐式磚塔ものこされている。磚はレンガを意味する。一望無尽の大草原にキタイ人の都城の跡があり、そこにこの仏塔が立っているのを見たときに感動を覚えた。この種のキタイ式の仏塔が南は北京から、北はモンゴル高原まで東は旧渤海国から、西は現在の寧夏回族じちくまでに100期以上たっている。とりわけ契丹の本拠地である内モンゴル(南モンゴル)に多く見受けられる。モンゴル国の西部にひろがる草原で「塔」とならんでキタイ人の時代をいまにつたえるのは「砦」(バルガスン)だ。砦の近くにも仏塔がありキタイ帝国期に建てられたものだが16世紀17世紀には再利用されたようだ。内部からは白樺にモンゴル語で書かれた大量の仏典が20世期半ば以降みつかっている。モンゴル人には古くなった仏典を仏塔へ持参し収める習慣がある。この仏塔下から発見されたモンゴル語の仏典はドイツやイタリア、モンゴル国の研究者によって研究されて、チンギス・ハーンを仏教の神として称賛する経典もある。内モンゴル自治区バーリン草原にあるキタイ帝国の太祖・耶律阿保機の墓は天幕を模した石室で中に入れるほど広い。
 筆者の故郷のオルドスには北魏時代の石窟がいくつか残されている。もっとも脚光を浴びたのはアルジャイ石窟だ。石窟の岩壁には仏塔が掘られてるが、キタイ人の仏塔とは似ても似つかないチベット風、典型的な大夏帝国のタングート系のものだという。その証拠は石窟の天井をみあげたところにある蓮華藻井だ。藻井とは天井の意味で

 第五章「3つの帝国が鼎立した時代」では、オルドス高原の筆者の生家の近くにはチンギス・ハーンにほろぼされたタングート人の城址があった。タングートとは日本では西夏で知られたチベット系民族の王朝だ。筆者は子供の頃にタングートの逸話としておお様の耳はロバの耳の話を聞いていたが、イソップ童話にも入っていると知って驚いた。十世紀から十二世紀ごろのユーラシアはモンゴル系のキタイによる遼、タングートによる西夏、そして宋という3つの大帝国があったが、そのうちのキタイとタングートという言葉は現代モンゴル語の中に行き続けている。漢人すなわち中国人のことをキタド(単数形はキタイ)といい、チベットをタングートと呼ぶ。なぜ本来の意味と違うように呼ぶのは分からないが、タングートの人がチベット系の言葉を話していたからではないかと推測される。キタイは南モンゴル自治区の東、大興安嶺の南麓に遊牧していたモンゴル系の集団である。その集団から耶律阿保機というリーダーが誕生し、カガンを自称する。907年のことだ。その後、耶律阿保機は916年に大キタイコクを作り、のちに国号を遼とするため、遼王朝としても知られている。渤海国を整復し、その名を東丹国としている。東丹国は930年に大キタイにほろぼされ、キタイは東は渤海国、西はパミール高原、北はモンゴル高原から南は黄河流域までの広大な土地を統治することになった。大キタkの半分は遊牧民で半分が主にシナ人の農民であった。北部の遊牧民は北面官が治め、未アンブの農民は南面官おさめる二重官制というユニークな統治体制を採用する。大キタイ国の滅亡の際に、追われた王子のひとり耶律大石が部隊を率いて北上し、1124年にモンゴル高原で勢力を立て直す。1130年になると中央アジアに移動し、グル・ハーンに即位して西遼を建国する。カラ・キタイとも呼ばれる。
 一方のタングート王朝は感じで表記すると大夏帝国となり、ユーラシアの東端にあるシナの視点では西夏だ。この王朝の誕生には生活で苦しくなた民商に拠る黄巣の乱(875-884年)をきっかけとした唐の衰退がおおいに関係している。唐はもともと鮮卑拓跋系の王朝でありながら、李姓を名乗るなどシナ化していった。現在のオルドス、当時の夏州にいた拓跋系集団のたすけをえて黄巣の乱を千夏する。唐王朝はそれへの対価として、夏州の拓跋集団に皇帝一族と同じ李姓と定難節度使という役職を与えた。節度使はとは唐の周辺異民族にそなえて募兵集団の指揮官であったが、のちに軍閥と貸して自立する者がおおかった。ここに誕生したオルドスの夏州李一族は、タングートらチベット系の集団をつぎつぎにとりこんでいき、巨大化していく。この動きを目の当たりにした大キタイ国は999年に夏州の拓跋とタングートという二大民族からなる軍団の統率者、李継遷に西夏王の称号を与えた。1032年にはその李継遷の孫である李元昊がタングート国を建て国王の座につき1038年には国号を大夏とあらためている。この大夏帝国は1227年にチンギス・ハーンによってのみこまれる。モンゴル時代の開幕だ。拓跋系とタングート系の人々は、モンゴル帝国に吸収され、モンゴル人と融合しながら活躍し続けている。
 宋は960年に南シナで勃興しているが、大キタイ国の支配者のほとんどがモンゴル系のキタイ人、大夏帝国の住民が拓跋系とタングート系とその混血であるのに対し、宋の人々がどういった人種であるかは定かではない。中国はそれを漢人としているが、その漢人は漢の時代の漢人とは完全に異質であると指摘している。それだけ南シナの人的な移動は激しく、つねに今日の東南アジアを巻き込む形で人種間の混合が進んでいた。シナは宋の漢人も漢の漢人とおなじであると純血主義を主張している。現在、香港を拠点とする航空会社にキャセイパシフィック航空があるがキャセイは契丹の意味である。これはキタイはヨーロッパ系の諸言語にも定着している事実をしめしている。
 大契丹国には5つの都があった。契丹は遊牧民であるから、皇帝は季節が変わるたびに自らの暮らす宮張をうつした。都市に定住しないのは遊牧民の伝統であり、のちのチンギス・ハーンも、ティムール朝を建国したティムールも同じように一箇所にとどまらず四方に遠征し続けた。キタイの人びとはいかにもモンゴロイドという顔をしていたことが絵に残されている。キタイ文化が優れていたことは当時の焼き物をみるとよくわかる。キタイの陶磁器の方が宋のものとくらべて文化の面では個性的で、技術の面でも焼き具合も秀でている。キタイのやきものにはのちの高麗青磁風のものもあるが、そのデザインにはシナの農耕文化の要素が希薄であり、遊牧民の影響を受けている。ある器には緑色の魚が描かれているが、この緑色はラピスラズリの使用による結晶だ。ラピスラズリはほとんどがアフガニスタンまたはエジプトからしか採掘されない好物で、それがキタイ人の器に使われているのは、当時からかれらのあいだでは国際貿易があったことの証でもある。元朝の染付は西方のラピスラズリと、中央アジアのイスラーム風デザインと、シナの焼き物の技術が一体化したことによって世界最高級の芸術品とされるが、キタイ時代にすでにその全長となる、東西文明の融合に拠る逸品が生まれていた。キタイでは天文学も発達していたことが墓誌蓋からわかる。内モンゴル自治区のバーリン草原の慶州には慶州釈迦仏舎利塔、俗に慶州白塔とよばれる美しい仏塔がたっている。これは契丹の皇后が夫の追善供養のために建立したもので、1049年に竣工したものである。おそくとも17世紀中葉まで慶州一体は草原の仏教センターのような場所でありつづけた。北面官がおさめていたモンゴル高原の東部には建築士ではおなじみの、キタイ式レンガ塔とよばれる密檐式磚塔ものこされている。磚はレンガを意味する。一望無尽の大草原にキタイ人の都城の跡があり、そこにこの仏塔が立っているのを見たときに感動を覚えた。この種のキタイ式の仏塔が南は北京から、北はモンゴル高原まで東は旧渤海国から、西は現在の寧夏回族じちくまでに100期以上たっている。とりわけ契丹の本拠地である内モンゴル(南モンゴル)に多く見受けられる。モンゴル国の西部にひろがる草原で「塔」とならんでキタイ人の時代をいまにつたえるのは「砦」(バルガスン)だ。砦の近くにも仏塔がありキタイ帝国期に建てられたものだが16世紀17世紀には再利用されたようだ。内部からは白樺にモンゴル語で書かれた大量の仏典が20世期半ば以降みつかっている。モンゴル人には古くなった仏典を仏塔へ持参し収める習慣がある。この仏塔下から発見されたモンゴル語の仏典はドイツやイタリア、モンゴル国の研究者によって研究されて、チンギス・ハーンを仏教の神として称賛する経典もある。内モンゴル自治区バーリン草原にあるキタイ帝国の太祖・耶律阿保機の墓は天幕を模した石室で中に入れるほど広い。
 筆者の故郷のオルドスには北魏時代の石窟がいくつか残されている。もっとも脚光を浴びたのはアルジャイ石窟だ。石窟の岩壁には仏塔が掘られてるが、キタイ人の仏塔とは似ても似つかないチベット風、典型的な大夏帝国のタングート系のものだという。その証拠は石窟の天井をみあげたところにある蓮華藻井だ。藻井とは天井の意味で天井に蓮華の花が彫られている。いまこのアルジャイ石窟があるオルドス北西部から黄河を西に渡ると、そこはムスリムが住む寧夏回族自治区だ。寧夏は大夏の本拠地であり、政府所在地がある銀川市の郊外の大草原には大夏タングートのころの仏塔が悠然と立っている。レンガ造りであることはキタイの仏塔と同じだが、やはり美的作風はまるで違う。大夏は仏教の国であったが、のちに主としてチベット仏教が顕著となっていく。1227年にチンギス・ハーンによって滅ぼされた跡もタングート系の人々は西夏語でかかれたチベット仏教の仏典を大切にして守ってきた。万里の長城にもうけられた関所のうちの一つだが、そこには漢文とモンゴル文字、西夏文字などさまざまな種類の文字で仏典が書き込まれている。西夏文字は日本人のめには読めそうで読めない漢字のように映るだろう。これは漢字から派生した文字で、日本の言語学者によってほぼ解読された。元朝はほかの草原帝国と同様に、複数の言語を同時に運用してきたが西夏語もその一つである。多言語に拠る記述はあるじゃい石窟の内部にも認められ、モンゴル語とサンスクリット語、それにチベット語でターラーの女神が称賛されている。元朝はモンゴル帝国の東の一部とはいえ、さまざまな民族からなる大帝国である。南モンゴル中央部のオンニュート草原には1335年に建てられたシナ人張応瑞の墓があるが、その墓碑銘には彼がいかにモンゴルの豪族に貢献したかが、漢文とモンゴル語の双方できざまれている。
 多民族多宗教のモンゴル帝国は儒教仏教道教の三つの宗教が共存し融合した。この時代は現実主義な民間信仰の道教と、阿弥陀仏信仰や弥勒仏信仰との同化が急速に進んだ。阿弥陀仏信仰とは南無阿弥陀仏という六字名号を唱えれば死後は極楽浄土へゆけるたいうものである。弥勒仏下生信仰の実践者として、当時力をつけていた白蓮教団から生まれた朱元璋をあげることができる。白蓮教系の宗教結社から、近代に入って義和団が誕生した。どちらも秘密結社である。このような秘密結社は政情が不安定になると、急速に力を伸ばし、国家転覆をはかる。国家が自分たちを守ってくれないのなら、自分たちの力でなんとかしようと考えるのである。これは義和団がかかげていた阪外国主義にも直結する。現代中国が半日主義であるのには様々な理由があるがゆえに、白蓮教的な考え方が中華文明の中に根付いている事実も要素の一つである。大元王朝の首都は大都だがそこにはチンギスハーンがシャーマニズム信仰に沿ってまつられていたかという気楽が元史などに残されている。モンゴル帝国、元王朝は宗教に寛容であったので、チベット仏教は国教の地位にあったが、シナ人の儒教もじつは元朝時代に隆盛をほこっていた。南モンゴルの草原にも孔子を尊崇するモンゴル帝国時代の石碑が残っている。モンゴル帝国時代のチベット仏教は元朝の帝室では高い地位を獲得していたものの、草原の遊牧民社会にどれほど浸透していたかは不明である。モンゴル高原にある都市ハラ・ホリムはモンゴル帝国の首都だったが、その周囲には穏やかな起伏のある草原がひろがっている。チベット仏教が再度、ステップに伝わると、草原の僧たちは往昔の帝都に使われていた石材やレンガを僧院の建築に活用し、新たにエルデニ・ジョーという寺院群が誕生した。このエルデニ・ジョー寺院群の裏にある谷間をチベット仏教の僧侶たちは、なまめかしい女性の秘部だと解釈した。そこで僧侶たちは、男根を模した石を折れた状態で草原のなかにすえた。
 キリスト教文化は845年に古代キリスト教の教派のひとつであるキリスト教ネストリウス派が伝わって以来、古代シナでは定着しなかったが、モンゴル高原では浸透し、13世紀にはケレイトやオングートなど有力な部族に信奉されていたという説がある。プレスター・ジョンは西欧で12世紀から16世紀にかけて、アジアかアフリカの何処かに存在するキリスト教国の国王のことで、イスラーム教団を叩きのめそうとしていると考えられていた。13世紀にキリスト教がモンゴル高原に根付いたきっかけは1267年、ネストリウス派キリスト教徒であったマール・セルギスが西方より元朝を訪れ、帝室に使えるようになったこととも関係があるかもしれない。その後、1294年には、ローマ教皇ニコラウス四世から派遣されたジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノがモンゴル帝国の大都を訪ね、今日の内モンゴルの草原にローマ教会堂をたてている。これが、草原のモンゴル人などの遊牧民がカトリックに改宗するおおきなきっかけともなった。オングーとがくらしていた地域からは、シリア文字のきざまれたキリスト教徒の墓石がおおくみつかっている。モンゴル高原の中北部に割拠していた有力なテュルク系の遊牧民のひとつであったケレイトもほとんどがネストリウス派のキリストっ教徒であった。なお代々、そのケレイトの女性はチンギス・ハーン家に嫁いでいる。
 北京にはキタイ時代に淵源するモスクがある。あまり中央アジアにあるようなモスクのようにみえないかもしれないが、牛街清真礼拝時がそれだ。996年に建立されたとされている。イスラームはモンゴル帝国の樹立語、神秘主義教団のスーフィーたちの活動もあって草原に広がっていく。ある宗教が別の宗教の信者たちの地域を思想的に塗り替えていく途中いは従前の設備を活用する。寧夏回族自治区南部の同心県にはチベット仏教の寺院をモスクに改修したものがある。今日の新疆ウイグル地軸東部にハミ市があるが、ハミ市内にたつハミ王の陵墓も、イスラーム風のたてものだ。ハミ王はチンギス・ハーンの次男チャガタイの系統だ。
 西夏文字は漢字から派生したものだが、契丹文字も漢字を改変したもので920年に作られた表意文字である。漢字文化圏の一員である。キタイ語はモンゴル系の言葉であることが分かっている。キタイ人は大小二種類の文字を創設した。漢字から派生したものを契丹大字と予備、表音文字の方は契丹小字である。言語に関しはモンゴル高原の遊牧の民はずっと西のものを導入してきた。テュルクがもちいたルーン文字しかり、キタイも大夏も同様である。契丹文字は大キタイ国滅亡後にものこった。雲南省の墓碑に契丹小字がつかわれていたという。フビライ・ハーンは宋を征服する前に雲南を陥落させている。このときの軍勢は、モンゴルに帰順したばかりのキタイの人々で構成されていたと伝えられている。その中に攻め入った雲南に駐屯し、子孫を残したものもいる。今の雲南のモンゴル人の中には、キタイの子孫が少なからずいるはずだ。現在ではモンゴル人と称している雲南省のキタイ後裔のなかには「阿」という姓がありこれはキタイ帝国の太祖・耶律阿保機の阿に由来すると現地に伝わっている。内モンゴル北東部に位置するフンボイルには、打ウールという遊牧狩猟民族がいる。かつては打ウール・モンゴルと自称していたかれらは、近年、自分たちは契丹の子孫であると主張している。ダウール語は明らかにモンゴル系の言葉である。大夏の子孫は東チベットにいる羌族でないかと目されている。

 第六章「最後のユーラシア帝国、清」では、中央ユーラシア最後の帝国について見ていく。1636年に建ち1912年に滅ぶ。ロジア帝国は1917年、オスマン帝国は1922年に崩壊しているので、ときをほぼ同じくしている。著者のふるさとのオルドスには清の第四代皇帝であった康熙帝が狩猟をしていたとか旅をしていたという伝説が多い。康熙帝は筆まめで手紙が残っている。その中にモンゴル人の礼節について称賛している箇所があるが、遊牧民はヨスンすなわち礼節を命のように大切にする。この価値観はウイグル人にもカザフ人にもすべてのテュルク系の人々にも、またアフガンにいるパシュトゥーンの人々にもきょうつうしている。遊牧民は義理人情を重視し、他者をもてなす文化を持っている。シナ人は遊牧民を野蛮だとするが、それは儒教的な礼節と違うからである。また1949年の協賛革命で中国共産党の指導者がそれまでのシナの伝統文化を破壊した。古くからの儒教風の品格や洗練の基準を否定し、粗野であることが素晴らしいと決めつけた。その顕著な例が文字であり、1980年代まで中国では下手な字こそ労働階級の字であり素晴らしいとされた。文化革命の被害はそれだけではなく、農村に下放されたりした二十歳前後の大学受験生は無学の世代になってしまい、大学の筆記試験でも中学生のレベルでも解けないようになってしまった。いまの習近平主席と同じ世代の人たちである。時代を十七世紀にもどすと、狩猟と放牧の療法をいとなむ満州人であった康熙帝は遊牧民の礼節を理解した。モンゴル人は満州人をどう見たかということでは筆者の体験がある。高校生の同窓に貴族出身の満州人がいて、とても優雅で上品であったという。清朝の名残はオルドスの南の檎林にもいられる。ここには無数の石窟があり、満州文字が刻まれている。満州文字はモンゴル文字をもとにつくられた表音文字なので、モンゴル人は読むことができるが意味がわからない。
 満州の金王朝の都はハルビン周辺だった。ハルビンは伊藤博文の暗殺で有名になった。冬になると札幌雪祭りのような氷祭りをする。金王朝は大女真金国で満州語ではアムバン・ジュシェン・アルチェン・グルンという。初代皇帝・完顔阿骨打によって突如、樹立された王朝とされているが、それ以前に、この地域に関する記録が少なかったからだろう。金王朝は建国後、キタイ帝国をほろぼし、1125年に宋をいったん滅亡に追い込む。このとき南へ逃走した人々は南宋王朝を樹立するが、その南宋も金王朝に絹や女性を貢ぐなどして臣従する。しかし中国はその事実を歪め、宋中心史観でこの時代を書き直し、宋が正統王朝であり、この金王朝やキタイ帝国、タングート人の大夏帝国は宋の地方政権であったかのように扱っている。このあやまりを当時のモンゴル帝国は許容しなかった。モンゴル帝国は自らが滅ぼしたキタイと大夏、それに金と宋の歴史をすべて平等にあつかって記録に残そうとした。大元ウルス治下で遼史、金史、宋史を1343-44年に国家編纂した。
 ともあれ金王朝はじつにユーラシア的な王朝であった。キタイ・タングートと同様に独自の文字を創成している。1119年に女真大字をつくり、そのおよそ二十年後に女真小字も創成していて、それは契丹のそれと同様に漢字を改変してつくったものだ。1173年にはシナ風の漢字を使った姓をもちいることを禁じているが、これはシナ化をおそれ、ふせぐためである。女真文字は金王朝がほろんでからも約二百年間、つかわれていた。 1179年には朱熹という人物が南宋朝廷に上奏して時事を論じる。知識人たる朱熹が皇帝に政権運営や国際関係についてしたためた手紙を送ったのである。皇帝は朱熹を気に入り、中華の南宋という国家をどう位置づけ、周囲にある夷狄国家とどのような序列関係を理念的に作るかの体系化を試みた。これが後世の中華思想の基礎になっている。なお1155 年にモンゴル高原ではテムジンが生まれている。その人物は1206年には遊牧集団を統一してチンギス・ハーンと称するようになる。このころ金王朝の関心は南宋に向けられていたが、1234年、北から攻めてきたチンギス・ハーンによってほろぼされる。その後モンゴルはさらに南下し、1279年に南宋を併合し、モンゴル帝国をたてる。南宋では新儒教が流行していたが、その骨子が朱熹による朱子学だった。朱子学では君臣間の忠誠が強調されていたので、皇帝は臣下のものたちに忠誠を求めるので、非常に便利な存在だった。元は宋をほろぼしたあと朱子学を部分的に保護し、奨励した。日本へも伝わり、徳川時代には漢学と呼ばれるようになる。1269年、モンゴルはパクパ文字を国字に制定し、ウイグル文字との併用をみとめた。しかし、漢字を国字にすることは選ばなかった。高麗王国でハングル文字をつくったのもシナに同化することをおそれたのだろう。
 1351年に紅巾の乱(白蓮教徒の乱)が勃発する。この叛乱で元朝は崩壊していく。元朝のあとに誕生するのは中華中心史観的には明朝だが、実際には権力の真空地帯が、今日で言う東北に生じている。そこで力を蓄えていたジュシェン人のヌルハチは1616年に後金国をたてる。この名前には自分たちは金王朝の後裔という意味がこめられてる。1635年、ヌルハチの子ホンタイジ(太宗)はモンゴル帝国最後の大ハーンであるリクダン・ハーンを追い詰め、大ハーンの玉璽をゆずりうけた。玉璽はシアの歴代王朝および皇帝に代々うけつがれてきた皇帝用の印である。1368年に明が統一され、モンゴル帝国の政権にあった人々が万里の長城の北へおいやられたとき、その大ハーンは玉璽を手放さなかった。何度も手に入れようと北のモンゴル草原へ兵を送り、その度に敗れて手に入れられず、その結果、玉璽を新しく捏造するという暴挙にでる。モンゴルの大ハーンがまもっていた元祖の玉璽は1635年にホンタイジの手にわたった。ホンタイジはそれにより、名実ともにユーラシア東部草原の大ハーンとなる。遊牧民に古くからの即位の儀式を踏んでハーンとして認められた。玉璽の譲渡をへて、モンゴル人とジュシェン人はパートナーとなった。新疆は1759年ごろに現れ、あの辺りにいたモンゴル人やテュルク人が清朝に帰順したことで、清朝に新たな国土が加わったのだが、新疆とはそのようにしてできた新しい土地という意味である。
 ホンタイジは1636年に国号をダイチンとして、ゆるやかにジュシェンと称していた人々をマンジュと統一した。マンジュの由来は文珠菩薩である。樹シェン人の間にも文珠菩薩信仰は根付き、かれらにマンジュを自称させるまでになった。清朝の皇帝はハーンと呼ばれていた事実から明らかなようにマンジュ人社会では遊牧民の伝統が受け継がれていた。清朝にはやっつの有力な部族が連なっていた。それを八旗と呼ぶ。部族ごとに異なる旗をもっていて、旗の違いはマンジュ人の間の部族の違いを表していた。各旗に属する者は旗人とよばれた。旗人は貴族の身分である。ダイチンはまず東北を統一し、それからモンゴルを支配下に入れた。その後、万里の長城を越えて明を征服するのだが、その征服のさいには満州八旗と蒙古八旗、それに漢軍八旗が構成されていた。マンジュ人で構成されていたもともとの八旗に加えて、あらたにモンゴル人や漢人(高麗人)も加わった。興味深いのは満州八旗が純粋にマンジュだけで構成されていたかというと、そうではなく、モンゴル人でも漢人でもなりたければマンジュ人=旗人になれた。旗人になるというのはマンジュとしての行き方と価値観をうけいれ、マンジュとして生きることである。どの旗人もマンジュの言葉をある程度、話せただろう。モンゴル人も漢人もマンジュと通婚し、ゆるやかなマンジュ化を勧めた。旗人たちは明の領土を手中におさめた大ハーンとともに北京に入った。大ハーンは紫禁城(現在の故宮博物館)に居を構え、その周辺を八旗がかためた。
 ここで再びハルビンに目を転じる。黒龍江省博物館には旗人と民族の関係を象徴するともいれる人物に関する展示がある。19世紀の吉林将軍、富明河の墓からの出土品だ。吉林将軍はマンジュ発祥の地である東北三省の最高支配者だ。富明河の富という姓はまさにマンジュ人の姓である。彼は明朝で兵部尚書をつとめたシナ人・袁崇煥とヌルハチ、ホンタイジについては有名な逸話が残されている。袁崇煥将軍の軍勢に拠るまもりはかたく、ヌルハチもホンタイジもなかなか万里の長城を超えることができなかった。そこでヌルハチの側は知略を講じる。すでに袁崇煥はマンジュと通じていると噂をながしたのだ。疑り深い明の皇帝はその噂を鵜呑みにした。そして袁崇煥を凌遅の刑という生きたまま体から肉を削ぐ刑に処する。その結果、袁崇煥の一族は流浪の民となった。漢の皇帝が匈奴に降った李陵一族を処罰するのと同じ手法である。袁崇煥の子供の袁文弼は後金国の軍に入隊した。そこで親譲りの能力を発揮し、つぎつぎと軍功をたて、そして漢軍八旗に登用されるまでになる。ここで袁文弼はマンジュ風の姓・富をいただく。ただし袁世も後々まで伝わり、富明河も袁世福という名も同時にもっていた。富明河の長男・寿山は日清戦争で日本とたたかい、そののちに義和団の乱でロシア軍とたたかってやぶれ、一家心中をはかっている。最後まで大清のために尽力した家計であった。1911年12月にモンゴル高原が独立を宣言したことの影響を色濃くうけて、三日後に清朝のハーンが政権を放棄。それによって清朝は崩壊し、革命のないまま中華民国が成立する。この中華民国は五族協和ー漢族・蒙古族・満州族・回(ウイグル)・チベット族を当初となえていた。清朝の旗人だった人びとは満州旗人も蒙古旗人も漢軍旗人も多くが、満州民族となった。のちに中華民国は各地の満城に駐在する満州人を大量虐殺するようになったため、元旗人のなかには漢族を自称するようになる者もでてきた。
 清朝六代のハーン、乾隆帝でこの節は終わる。乾隆帝は当時のハーンに求められていたように、公用語のマンジュ語、モンゴル語だけでなく、漢文にも通じ、さらにトルコ語もでき、アラビア語もまなんでいた多彩な人物であった。彼の姿は当時、清朝朝廷に仕えていたイタリア人画家郎世寧ことカスティリオーネによって数多く描かれている。彼の絵の中ではマンジュ人の乾隆帝は馬に乗っている。清朝のハーンは代々、夏には熱河(ジェホール)、いまでいう北京の北にある承徳のちかくにあった木蘭囲場で狩猟をするのが通例だった。ユーラシアの遊牧民の指導者たちをまねいてはともに楽しんでいた。これは乾隆帝自らも、遊牧民の価値観を重視するユーラシアの大ハーンであることを誇示するためのパフォーマンスだった。どれだけ学問ができても、馬に乗れなかったり狩りができなかったりするのはハーンの名折れであった。また木蘭囲場のあった熱河にはチベット仏教の寺も建立している。それはチベットの高層たちへのサービスでもあったが、乾隆帝は自らも生きたまま神になろうとしていた。今も残るのそのチベット仏教風の寺院にはマンジュ人に信仰されていた文珠菩薩だけでなく、乾隆帝自身が菩薩として描写されている。清朝史の専門家である杉山清彦氏によると、清のハーンはいくつもの身分の集積である。清朝の人々からみると八旗を束ねる議長であり、モンゴルの王侯からみれば玉璽をもつ大ハーンであるし、チベットの高僧からみれば影響力の大きな檀家であった。
 マンジュは同じ価値観を共有する人々を指す言葉であったが、それが地名の満州に変化していく。それには日本が大きく関わっている。1644年、越前の国の藤右衛門ら58人の一行は乗っていた船がナンパし、図門江に流れ着く。現在の中国と北朝鮮の間を流れるトマン河のことだ。トマンはモンゴル語やトルコ語で万を意味する。藤右衛門一行のうちの何人かは地元の住民に殺害されるが15人が生き残る。おりしも1644年はマンジュが明を征して北京に入場する年である。15人の日本人もそれに合流した。そして3年後、マンジュ語や漢文をまなびながら生活し、北京、朝鮮、対馬を経由して日本に帰り着く。当時の日本は鎖国していたので、幕府によって取り調べを受けた。その取り調べ記をもとに編まれたのが韃靼漂流記である。満州の歴史文化を研究していた衛藤利夫はその名著韃靼のなかでこの韃靼漂流記にも触れているが、注目すべきはこの韃靼という名称である。日本では韃靼そば、司馬遼太郎氏の韃靼疾風録、ロシア人アレクサンドル・ボロディンによるオペラ・イーゴリ公にある韃靼人の踊り、韃靼という言い方を政治的にもちいていたのは明朝である。韃靼とは古代シナ人が異民族を差別的に呼ぶときにつかわれた言葉だ。とりわけ明はその言葉を、モンゴル人を指す言葉としてつかってきた。当時の日本人は漢文を通じてユーラシアの知識をえていたので、その呼称に疑問を覚えることはなかったのだろう。1809年の幕府天分方をつとめた高橋景保による日本辺界略図では同じ地域が満州と明記されている。また1832年の高橋景保と交流のあったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトによる日本ではMandschureiとしるされちえる。これが欧州に地名そして民族名として伝わっている。それ以前は欧州でも漢文から情報を入手していたためか、その地域のことはタルタリアと呼んでいた。今、日本で満州、欧米でMandschureiという言葉がつかわれているのは、高橋景保のおかげなのだが、なぜ彼がかのちを満州と呼んだかは謎のままである。
 その満州は1931年の満州事変を機に翌年に日本の植民地となり、そこに満州国が建てられた。このときに皇帝に担がれたのが清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀だった。愛新覚羅とは清朝の皇帝一族の姓で、第六代ハーンの乾隆帝にも、愛新覚羅弘暦という名がある。愛新覚羅は黄金を意味し、現在中国に暮らす満州人で金姓を名乗っているのは愛新覚羅系の子孫である。満州国は1945年8月、ソ連蒙古連合軍によって崩壊し、日本の支配下から脱した。また川島芳子こと愛新覚羅顯㺭も清の皇族の王女であるが、清朝の復活を試みていた。彼女の願いは叶わなかったが、今の時代にも大いなる遺産を残している。中国の標準語はMandarinと呼ばれるが、満大人から来ていて、満州の身分が高い人=旗人の意味である。満州の旗人たちが話していた言葉が、いまの中国語の骨格となっている。また今の中国がモンゴルとチベット、そして新疆ウイグルへの支配を主張する直接の根拠は、満州人の清朝がそうしていたからである。今現在、マンジュ語を話せる人、読める人は少なくなっている。しかし新疆でくらす、中国がシボ族と称する数万の人々はじつは満州人である。かれらは故宮博物館に眠る膨大な遼のマンジュ語で書かれた古文書の整理をおこなっている。またチャイナドレスのことを旗袍は旗人のドレスという意味で、満州の女性が着ていたドレスである。深く入るスリットは馬に乗るためのものだ。
 日本人は三国時代の関羽が好きで、シナ人の支配者も関羽が好きだ。何があっても兄の劉備に使えた忠義の人だからだ。満州のハーンも叛乱を招かないようにと、関羽を利用した。あちこちに関帝廟をたて、そこに忠義絶倫の四文字を刻んだ看板を掲げ、関羽崇拝をすすめた。

 終章「現在の中国は歴史に復習される」では、チンギスハーンとその子孫は13世紀に朝鮮半島から東ヨーロッパにまたがる広大な帝国を創建した。モンゴルの支配者たちはすべて宗教に布教の自由をあたえ、さまざまな人種と民族があつまり、文化や経済の交流がさかんになった。東方見聞録を書いたとされるヴェネツィア商人、マルコ・ポーロもモンゴル帝国の一部をなす元朝の役人に登用され、雲南などで徴税の実務も担当していたほど、国際的に開かれた国家体制をしいていた。元朝のみならず、世界帝国とよばれるような広い国土をおさめるためには、支配者はあらゆる文化や宗教を受け入れる寛容さが必要とされる。しかし遊牧民が樹立した王朝は宗教的いに寛容な一方、シナ人が支配した時期には宗教弾圧や多民族の暴動がたえなかった。現在でも実際には共産党がおさめる国よりも神をうけにおく宗教がゆるされていない。中国共産党は宗教はアヘンだという西洋生まれのマルクス流のイデオロギーを振りがざしているが、根底には中華文明の先生主義的思想である。シナではしばしば民衆の氾濫によって王朝がほろんできた。おおくの場合、その引き金となったのは、宗教への弾圧である。あとえば漢王朝がたおれたきっかけは、中国で最初の大規模な宗教反乱であった黄巾の乱である。今の中国は宗教に対しても少数民族にたいしても不信と強圧をもってのぞんでいる。それはシナ人政権に共通する弱点である。
 では中国人の宗教観とはいかなるものか。中国の宗教といえば儒教と道教であり、特徴は圧倒的な現世への執着である。中国人がもとめるのはお金や出世といった生きているうちにえられる現世利益である。その執着がたんてきにあらわれているのが不老長寿へのあこがれである。不老長寿の薬を作る錬丹術は、道教の基本的な要素である。仏教やキリスト教、それにイスラームの世界三大宗教は早い時期にシナにつたわったが、中心部では定着せず、むしろ周辺の地域や民族によって受け入れられている。シナ人は仏教をうけいれようとせず、漢の第七代皇帝・武帝は紀元前136年、儒教を官学にさだめる。一方、五胡十六国時代にはあたゆる宗教が栄えた。このとき魏王となった鮮卑族の拓跋珪が今日の山西省の大同や河南省の洛陽につくらせた石窟は今でも世界遺産として有名な観光地になっている。6世紀末から10世紀はじめに成立した鮮卑拓跋系の随や唐の時代も仏教がさかんになる。この時代、遣隋使や遣唐使によって日本にも多くの僧や仏典がわたってきた。日本にはいまでも多数の仏教徒がいるがシナにな根付いていない。
 キリスト教は唐の時代に伝わった。781年に西安にたてられた大秦景教流行中国碑という碑文には景教がシナにつたわるまでの経緯がかかれている。しかし唐朝末期の845年、景教の布教は禁じられる。このときに伝教者たちが北方の高原に逃れた結果、高原地帯の遊牧民の間に景教がひろまったとみられている。12世紀の終わり、チンギスハーンに抵抗したケレイト族がいるがモンゴル族よりも規模が大きく、文明も進んでいたが宗教は景教だった。1271年に元はローマ教皇と外交関係をむすび、大司教インノケンティウスが派遣される。大司教の死後も信者たちは元にすみ続けた。景教とであったケレイト族のワン・ハーンはヨーロッパのキリスト教社会にひとつの伝説をのこしている。1095年にはじまった十字軍だったが、12世紀なかばになるとイスラーム教徒の反撃をうけて劣勢を余儀なくされた。このころ、ヨーロッパで広まったのが第五章でも述べたプレスター(司祭)・ジョンの伝説である。東の果てに住むキリスト教徒の王ジョンが軍勢を率いて、十字軍をたすけてくれるのだ、という半ば希望を込めた伝説である。このプレスター・ジョン伝説のもととなったのが、ワン・ハーンだと言われている。元が滅びると西北地域のモンゴル人の多くはイスラームに改宗したが、景教徒はその後もモンゴリア南部に残った。
 7世紀のはじめに成立したイスラームも、唐の時代にシナに入り、回教とよばれ、元の時代に定着した。モンゴル帝国の統治の特徴は、ペルシャやアラブ、トルコなどを整復すると、被征服民族のなかから人材を選び出し、役人や軍人として利用した。そのため多くのムスリムが登用され、元に移り住んだ。その影響をうけて、大勢のモンゴル人もイスラーム教信者、すなわちムスリムとなった。チンギス・ハーンの死後、モンゴル帝国の西半分は4つに分割されたが、そのうち多くの皇子たちがイスラームに改宗している。元を倒した明はイスラームを弾圧した。
 フビライ・ハーン治下の元朝はチベット仏教を国教にさだめる。その背景にはシナ古来の儒教や道教とは違う宗教を用いることによって、「漢民族」との同化をふせぐというねらいもあったと思われる。異民族がシナを支配しようとすると逆に漢民族と同化してしまうことに気づいていた。しかし、モンゴル人の宗教は放牧と狩猟に根ざした自然信仰、シャーマニズムが基本で、シナのような農耕文明後を収めることができるほど論理的ではなかった。そこでモンゴル人はチベット仏教を選んだ。こうして元が仏教やイスラームを取り込んでいく中で宗教論争が勃発した。それに決着をつけるべく、モンゴル帝国の第四皇帝のモンケはチベット仏教と道教、イスラーム、そしてキリスト教の代表者を呼んで、弁論大会をひらいた。四派の代表者が数週間に渡って、どの宗教が民の利益につながるかなどのテーマで自分の宗教のよさをうたった。興味深いのは、審判役のモンケが特定の宗教がかったという結論を出さなかったことである。これは非常にたくみな政治手法といえるだろう。モンゴル帝国はすべての文化に寛容であることをしめさなければならず、一つの宗教を選ぶことをさけたのである。また統治のもう一つの武器はモンゴル語で明代のかなり遅い時期までアジアの公用語、外交用の言葉として使われていた事がわかり、漢語よりもわかりやすかったことが伺われる。
 1368年にシナ人の民が元から政権を奪い取るが、イスラームへの弾圧が始める。異民族の反乱を抑え抑圧的な制作を取った。元の前の宋も明とおなじくシナ人の政権であったが、宋の時代は世界の三大発明といわれる火薬と羅針盤、活版印刷が発明され、現代では世界的に有名な景徳鎮の陶磁器がつくられるなど、独自文化が花開き、経済的にも発展した。この違いはどこにあるのだろうか。宋はもともと北部を北方民族のキタイや金人に抑えられていたため、東南沿岸部を中心とする小さなシナだったのである。この小さな規模でシナ人のみの民族国家を作ることが漢民族にはもっとも適していると断じていい。明のように宋より広い国土をえて、多くの多民族をとうちしなくてはならなくなると、他の文化、文明を認めない漢民族ではうまくいかない。これは現代の中国共産党による政権運営とも通ずる。ちなみに明は15世紀に大艦隊をアフリカに派遣しているが指揮をした鄭和はアラブ系のイスラム教徒でシナ人ではない。
 清は多民族・多文化国家であったが、王朝の後期には漢民族よりも漢民族らしい皇帝へと変質する。19世紀後半にはみっつの大きな宗教反乱があいついでおこり、清の屋台骨をゆるがせた。また清の滅亡の引き金をひいたといれるのが、1862年から77年までつづいた西北ムスリム大反乱である。陜西省でイスラーム教徒と漢人が武力衝突をおこしたことがきっかけとなり、甘粛と寧夏、それに青海に広がる大規模な反乱が発生する。回民とウイグル人、トルコ系のサラール人などが連携し、清は15年もつづいた反乱の鎮圧のために、すっかりその力をすり減らしてしまったのである。そして1899年、義和団の乱がおこる。はじめはキリスト教布教活動への反対運動だったが、外国人の排斥運動に発展した。
 中国の人口は現在、13億人を超えている。その中でキリスト教徒の数は一億3千人から1億5千人といわれ、将来、世界最大のキリスト教国になるという見方まで出ている。イスラーム教徒は1千二百万人をこえている。共産党政府はデータを公表しないが、その膨大な数をおそれて、弾圧を強めている。キリスト教はバチカンのローマ教皇との外交関係をむすぶに至っていない。一方、イスラームではキリスト教のような断絶状態にはない。メッカへの巡礼はいちおうゆるされちえる。ところがメッカで教えに接すると、中国できいたものとはどうもちがう。そうした宗教的な国家への不信が反共運動へ変わることを折れて、中国は巡礼を制限している。そのいっぽうで観光という名目でタイやミャンマーに出国し、そこからメッカに向かう抜け参りは年々族化し、いまでは公認の巡礼者の数倍にもなったという。仏教についてはチベット仏教とダライ・ラマ14世への打夏がよく知られるところである。1959年、ダライ・ラマの身柄をめぐって人民解放軍とチベット人との間であいだで武力衝突がおった。その結果、ダライ・ラマはインドに亡命し、臨時政府の樹立を宣言した。
 中国人が他の宗教をおそれるのはかれらの世界観と深い関わりがあるからである。道教の世界観は天帝思想とよばれ、頂点に天上界を収める天帝がいて、天帝に命じられた皇帝が現世を収めるという構造になっている。つまり宗教的世界観と現実が地続きになっている。すると他の宗教をみるとき、中国人はその宗教の教祖が皇帝であり、教団幹部が大臣、信者は兵隊と置き換えかのうだと考える。つまり宗教団体が多くの信者をあつめるということは反体制勢力が革命の準備をおこなっているようなものなのである。だから政府は外国からはいってくる宗教に対して、本来の教えに修正を加えて、中国人の思想をうけいれることをもとめ、従わなかったら弾圧することになる。
 中国はウイグル地区ではイスラーム教徒による反政府運動がさかんである。またトルコ共和国との関係も重要で、ウイグル人は中央アジアに広がるテュルクの民の一部で連帯意識が非常に強いが、中央アジアのテュルク系国家のように独立していない。中国では政権が不安定になると、地下に隠れていた宗教団体が反乱という形で姿をあらわす。1999年に一万人を超える法輪功の信者が北京の中南海をとりかこんだ事件はまさにその例である。中国共産党の覇権にほころびが生まれるとすれば宗教政策の失敗から始まる可能性が高い。

気になった点

 モンゴルでは日を崇拝するシャーマニズム進行があり、神々の頂点に立つ火の神をホルモスターとよぶのだが、ホルモスターはアフラ・マズダーがなまったものだというのは面白かった。

 p200東丹国から丹後に90人以上の使者が訪れているという。丹後とのつながりは興味深い。

 契丹文字は大小という漢字と仮名のような二種類を漢字から創設していて興味深い。日本語と同じではないか。文字がもつ力というか文化の意味を本書では非常によく理解できた。西夏もキタイもかんじをそのまま用いることができたのにわざわざ改変したのはシナに同化するのを恐れたから、とあったが、日本の漢字の輸入を考えると話し言葉が優先なので、話し言葉に文字を合わせたという見方のほうが自然な気がしたが、どうであろう。もちろん話し言葉を変えるというのはあり得ないだろう。

 高橋景保がマンジュの地を満州と名付けてそれが欧米にも広がったとのことだが、なぜその名前になったのかは謎という。不思議である。タルタリアはローマ風の響きがあるが韃靼なの?

 漢人が宗教に不寛容であるのは皇帝の権威が道教の考え方に根ざしているからだと理解した。するとイスラームの宗教と政治の同化のようなことが起こっているので、漢人の宗教は同じように政治と宗教の同化を求めるので、他宗教に不寛容に思える。中国の拝金主義は何なのだろうか?と長年疑問だったが、道教の現世主義に根源があったとすると腑に落ちた。未だ謎なのはあの共同体意識の無さ。仲間とか家族とのつながりは深いが他人は関係ないという意識。モンゴルやテュルクには共同体意識がある気がする。

 また中国の文明の同化力について強調されているが、それは文化の洗練度や魅力なのではないかとも思う。それが何なのか、他文明との比較ではどうなのかというのは重要なテーマであると感じた。

最後に

 内容が網羅的で他の研究や著書からの引用も多く、非常に勉強になった。また筆者のモンゴル人としての視点や過去の体験も降り挟まれており、字面だけでなく筆者の体験としての文化や歴史が感じられて、最後まで楽しく読めた。知らなかったことも多分に含まれていたし、基本的には反中国の視点で書かれているが、過去や現代のシナ人の国家を分析するにも宗教的な側面や文字などの文化的な側面など有用な情報が満載されていたと思う。中国や中央ユーラシアの国家を勉強したい人にはおすすめです!

人類はどこにいくのか? (興亡の世界史 20)

一通り読んだので、最終巻に突入した。

本の構成

 「はじめに」では歴史のマクロな見方とミクロな見方について説明し、興亡の世界史が目指した歴史を問うことは、現代人が直面している問題のありかを明確にして、これからの人類の進むべき道を問うためであると説明する。またこの巻において、人類史を通じてうみとは何であったか、宗教とのかかわりをどうとらえるか、そしてアフリカへをどうとらえるか、問うていくとする。そして歴史の研究という史料批判にもとづいた知的営みが成立してきたのは19のヨーロッパからである。過去の資料は権力者のバイアスがかかっている。歴史的な過去に問いを発することで歴史像を構築する。そしてこれは現在と繋がっていて、過去に照らして現在の位置を明確にしている。また歴史学とは多様な資料を突き合わせ多様な研究を踏まえるという手間ひまのかかる職人的ともいえる仕事が必要である。そこから歴史人氏とその解釈が様々な分野で蓄積されてきた。歴史に対する問いは多様化して知のストックも膨大なものとなって、個人ではフォローしきれないほどである。この中でヨーロッパにおける歴史の展開を一つのスタンダードとして世界をみようとした見方は未だにかこのものではない。世界の結びつきが深くなっている中でこのいっせいきほどの歴史学自体の変化と深化とを踏まえた、あらたな世界史像の提起が求められている。

 第一章「世界史はこれから」では世界史はまだできておらず形成途上にあるとする。かつては西欧が自分たちこそ「文明」と称し、さらにみずからを基準に、それ以外の地域や国々を格付けしようとしていた。ちなみに文明・文化は中国にも輸出された和製漢語であり、もともとは文明は文徳がきらめくこと、文化は文徳で人を導くことをいうという。世界が一つに繋がり国家や地域圏経済をこえて、国際マネーが世界を徘徊する。そんのなかで歴史のもつ意味はますます重みを増しているかに見える。世界史はさまざまな彩りとあり方でひろがす社会・国家・地域などに基づきつつ、それらを超えた形で、全体を包み込む視点・構成を持つものでありたい。また歴史学が扱わなかった一万二千年から一万三千年以前のことより遥かに先立つ人間たちの歩みも含めて、人類の歴史の全体をできる限り偏りのなく統一的・体系的に総術し、今をよりよく理解するのに役立つものでありたい。そこにおいては紛争や対立をのりこえる視座や思考は不可欠である。かつての欧米は自らを優位に置く余り、そうでないものを異なるものとして、ことさら蔑視や差別感をあおるような文明観・歴史観を作り出してきた。西欧が浮上した18-19 世紀以降、むしろ野蛮と暴力、殺戮と破壊はどんどん激しく大規模になっている。対立・抗争については美化され、現在が創作した過去をもって現在を語ることがある。たとえば「レコンキスタ」である。それは19,20世紀のそうだくであった。再生服という言葉時代も愚かしいが、かつての日本ではそれをさらに美化して、国土回復運動と和訳した。イスラーム到来以前に、スペインもポルトガルもキリスト教支配もなかったことは、誰の目にもあきらかである。痩せた大地に豊饒な文化の華をもたらしたイスラームへの蔑視と象王、そしてかつて日本西洋史学、いや日本歴史学における西洋崇拝の構図など、もろもろのことがそこにすけて見える。また「国民国家』的な幻想や言説がゆきわたってしまい、そうでなかった歴史が、内外に対する擬態やブラフとして政治利用されたり、ナショナリズム風のエモーショナルな利害に色付けされて踏み絵さえ求めたりする。「国家」「民族」「部族」「国境」などの基本用語が近代以前と以後でほとんど似て非なるものであり、別の用語・概念を作る必要がある。
 ここから日本西洋史学が語られる。ヨーロッパを対象とし、英・仏・独を中心として、ギリシア・ローマもヨーロッパの原点として重要領域とした。イベリア半島、北欧、東欧、バルカン、そしてロシアをふくめた旧ソ連諸国なども英・仏・独の文脈で扱われる次期が久しく続いた。それが世界史という検知で歴史を眺めるのはほとんど西洋史学に属する人たちの仕事であるように思われてきた。一方で近年ことに東欧各国史やロシア史など、日本・西洋史学会の東方拡大がいちじるしい。イベリア史が本格的に研究されはじめ、日本の弱点であった合衆国史、南北アメリカ史についても、ヨーロッパ史からの独立がようやく果たされつつある。もちろん西洋史や西洋学が、日本という国家・社会・文化の近代化にはたした絶大な役割・貢献・影響は計り知れない。ところが日本近代も100年をはるかにすぎ、西洋史ないし西洋学のかなりの部分は、日本列島とそこに暮らす人間にとって、随分と血肉となった。そのため日本の西洋史はみずからの存在理由をさぐりなおす葛藤の中にある。さらに研究が急速に国際化し、当の本国の研究者たちと伍して抬頭に渡り合わなければならなくなった。日本で研究する場合には日本と当地の2つの世界に生きることが当然であるので、その苦闘の中から近代西欧モデルを真にのりこえる独自の世界像を構築できるのではと筆者は思う。
 かたや東洋史は長らく中国史を主力とした。日本が以前から手本とも教師ともしてきた中華なるものをもって東たるものの主軸とみなし、他のアジア史諸分野との連帯を図ろうとしていた。日本という文明帯は古来より大陸から人・物・刺激を受けそれを日本式に取捨選択しつつ取り込んできた。なかでも平安末ころから漢学をそれなりに受容し始めた。室町時代以降は文字通り漢学をもって学問とすることとなり、やがて江戸時代も元禄あたりからは、一通り備わって明治に及んだ。実は日本史上でもっとも漢学が盛んだったのはなんと西学の修得に賢明だったいわゆる文明開化あたりのじきのことであったのは興味深い。この西学と漢学に象徴される西と東の対置が日本における世界史アプローチの二本柱ともなったのである。
 ただし東アジア史と中国史はもとより同一でないし、中国史と漢族史もイコールではない。さらに中国なる地平は少なくとも四世紀・十三世紀・十八世紀を大きな活気として、空間と中身の両方で大きく脱皮した。こうしたごく基本的なことを混濁させた立論や、古代と現代を同一の土俵で眺める議論などは奇妙でしかない。漢族はいつから漢族なのか、あるいは漢族とは何かこそ問いたい。孫文が唱えた中華民族などは政治的なプロパガンダにすぎない。「中国を問う」ということは人類史における国家・民族・文明といった概念を超える何かを問うことになる。
 日本における世界史なるものは西欧を中心にヨーロッパ史に傾く西洋史と、中国を中心に東アジア史に傾く東洋史という西と東の接合物として続いてきた。こうした状況で東欧から延々と遥か中華領域まで巨大な歴史研究の空白が口をあけていた。こうした西と東の極端な棲み分けは手本とした西欧式の世界観において、すでに顕著であり、アジア史という考え方は西欧に起源する。そうした状況で世界史理解のかなめとなる中央ユーラシアである。戦後は内陸アジア史と言い換えられた領域には多言語能力と世界史への志向をもった研究者が輩出した。その結果として日本の東洋史は中国史とイコールにはならなかった。この綿密な文献研究と遺跡・遺物の分析を特徴とする内陸アジア史家のなかから、イスラーム研究への動きが生まれ、さらに中央ユーラシア史というより広いエリア・立場からのアプローチが次第に定着した。イスラーム史の側面もとりこんだ現在の日本の中央ユーラシア研究は多言語・多地域をカヴァーする眼差しの広さと顕著な歴史性・現代性を兼備する点にで世界史に関わるに日本の研究のなかで特出した意義と国際的な発言力をもっている。ついで、1970年ぜんごよりひろくイスラームにかかわる研究・アプローチが以前とは全く異なる水準・総量で展開した。それから40年たちイスラーム学・イスラーム史の研究は第展開をとげ、世界レベルで顕著な成果を残す研究者が幾人かいる。一方で隣接する研究分野である西洋史との交流や相互乗り入れは意外なことで両方へのまなざしと研究能力を兼備する研究者がふえることを希望したい。この世界における屈指の研究者群をかかえるイスラーム研究の範囲は広く、中東・バルカンをはじめ、ブラック・アフリカから南アジア・東南アジアはもとより、ロシア・カフカースも含めた広い意味での中央ユーラシアを覆い、東は中華領域にもゆきおよぶ。
 また南アジアはユーラシアの南方中央にきわめて多言・多彩、独自性の色濃い世界を作る。とりわけ、インド洋に突き出した巨大な三角形は、人間の交流・移動の大動脈をなし、いわゆる東洋と西洋を結びつけてきた。南アジアの陸と海は世界史の視点からは格別な意味がある。ただインダス文明以後、古代とされるヒンドゥー時代、中世とされるイスラーム時代、イギリス支配の近代、そして独立から現在までとおおまかに五期にわけられるが、多角的・総合的に把握するのは至難である。またイギリス支配時代に先鞭がつけられた近代歴史学の研究のなかの大テーゼである「アーリア人の来住」といったことを含む根本からの再検討が求められているように見える。インドでも70年代以降は現地調査もふくめた多様なアプローチがくりひろげられており、若手の抬頭が目に付く。ようするに欧米などの研究を範とする時期は過去のものとなっている。南アジアと不可分のアフガニスタンの情勢は南アジア全体に不安定化の波を及ぼしており、英露のグレートゲームを思わせる。一方で世界情勢の変化もあり1960-70年代にかけて東南アジア史という地域世界史が本格的にスタートした。
 南北アメリカや太平洋にかんしてもお決まりの図式の中でかたれることがおおかったが、合衆国史などは急速に充実しつつある。南北アメリカについては人類学・民俗学・考古学・植物学などから多様なプローチをしており、アステカやマヤといってメソ・アメリカ文明、インカをはじめとする南米アンデス諸文明に関して、新しく開拓されつつある。また日本人の若い研究者が活躍もある。またアフリカを考えることは世界史・人類史の暗面をみつめることであるかもしれない。近代ヨーロッパなるもののおぞましさを今更ながら思わざるを得ない。
 世界史なるものは、まだ形成途上にある。課題は山積している。オープン・スペースと化した国際情勢を背景として研究上の往来・交流・協業が発達し、歴史研究は稀にみる好条件に入りつつある。新発見などもそうそうのことではもはや驚かない時期のさなかになる。DMA分析の導入をはじめ、新技術による歴史の検証・見直しもこれからより激しく進展する。日本における世界史研究に関する特徴として三点ある。一つ目は時代・場所を問わず、一通りどんな分野にも専業とする研究者が組まなく後半に存在する。次にここの研究も実に緻密で生真面目なきちんとした分析・実証がなされている。最後に分厚すぎるまでの研究者層を擁しながら、その枠の中で自足しがちであり、世界史へのまなざしを書いていることである。日本には均整のとれた世界史をつくる可能性がある。今までの世界史はここの地域での縦割りの歴史が語られ、15世紀末になって突如としてヨーロッパが結び手として登場するというしかけであった。横に統合する世界史というのは、文明圏や地域単位での括りを乗り越えて、同じ時の中で展開・関連をみつめるということである。口で言うのはたやすいが、実際の歴史研究としてはまさに茨の道である。従来の世界史はこれが弱かった。世界史を横切りに扱うとうのは関連と統合が欠かせない。一人で複数の時代・分野・地域を直接扱える他分野兼通型の研究者群が次世代の人たちを育成すれば固定の枠に安住することはできない。またDNA分析などの理系とされてきた知識・能力・技術もかかせない。世界史を考えることは現代を考えることでもある。
 人間は、考え、求め、欲することで現在までのみちのりを辿ってきた。わたしたち日本列島にくらすものは、天与の自然条件を幸としつつ、ことさらな背伸びなどは不用としながらも、きわめてこまやかな産業社会をきちんとした備えは物心ともにたもち、国内外をとわない人と人のつながりをこそ無常のものとして、これからも着実にあゆんでいきたい。

 第二章「100億人時代をどう迎えるか」では人口から歴史を見ていく。人類の増加率は鈍化しているものの2050年には90億に達するのは避けられそうにない。一方過去の人口を一つのグラフで表すのは困難であり、250年ほど前から急増している。過去の人口を推定するにはまず国などの地域の特定し、その中での出生、死亡、移住を考える。しかしそれぞれを決める要因は多様であり、結婚は宗教など社会的・文化的な要因があり、妊娠には近代になるほど避妊の実施が大きく影響しており、それは文化的、社会的、経済的、倫理的な影響を複雑にうけている。脂肪も遺伝特性、栄養状態、感染症などの医学生物学的要因や、社会的な要因、保健医療サービルの受けやすさなども関わっている。また人口の変化は時に社会や文化に影響し、農耕の発明の引き金になったり、土地や資源をめぐる戦争の原因になることも多く、未開地への移住の引き金になったり、出産抑制を普及させる引き金にもなる。人口が持つ最も基本的な特徴はあらゆる個人を性と年齢だけに着目し一人と数えることである。
 地球上の人はホモ・サピエンスとよばえっるがミトコンドリアDNAの分析では12万年から29万年前のアフリカ東部に移住していた一人の個人に行き着く。それ以前の原人やネアンデルタール人は同じホモ族のメンバーであるものの絶滅した系統とみなされる。私たちの先祖の出生と死亡のパターンを分析するのに二つのアプローチが試みられている。一つは発掘される骨や歯などから情報を得る方法で、もう一つは現生の狩猟採集民などの社会で得られたデータから類推することである。第三のアプローチは遺伝的に類似する現生類人猿のチンパンジーなどとの比較である。人間は文化を道具を使用し文化を発展させてきた。食生活については加工・保存の技術が特に影響した。洞窟などの住居や毛皮などの衣服は物理的ストレスを軽減した。このような日常生活変化は家畜動物が置かれている状況に近似しているため、人間は「自己家畜化した動物」と呼ばれることがある。家畜動物や野生動物に比べて顔面に丸みが増すなど幼児的な特徴が成長せいてもほじされる。人間の場合も、復元された化石人類の顔面と、現生人類の顔面を比較してみるとこの傾向が顕著に見られる。また出産数も変化する。原因としては栄養状態の改善とストレス軽減による出産間隔の短縮と出産園例の延長である。アフリカの狩猟採集民の出産数の研究では8回や9回の出産をした女性がいたが個人により栄養状態・健康状態が違いばらつきが大きいことが見られた。また多産の遺伝子は存在しないと感がられていて、栄養状態などの条件が整えば多産の能力がるとされている。
 約二十年前に登場したホモ・サピエンスはおよそ10万年前にアフリカから地球上に拡散していった。以前の北京原人やジャワ原人に代表されるホモ・エレクトゥスもアフリカから拡散したので、二回目の出アフリカである。ヨーロッパを北上して東に向かいシベリア方面に進んだルートがあったようで、シベリアにも2万五千年前には到達していた。アジア大陸の東側は赤道付近ではインドネシアの島々やフィリピンの島々がつらなり、その東はオセアニアである。オセアニアへの進出は五万年ほど前、北アメリカへの進出は一万四千年ほど前に始まった。オセアニアへの最初の移住が起きた五万年前は地球の気温は現在よりはるかに低く海水面はさがっていて、インドネシアのバリ島より西の島々とフィリピンの多くの島々は、アジア大陸と陸続きでスンダ大陸を形成していた。第一幕の移住者はスンダ大陸の東部から筏のようなものに乗って、ニューギニア等の西部に到達したと考えられる。この移住者の子孫がオーストラリア人やニューギニア島の大半の地域に住む人々である。オセアニアへの第二幕の移住は数千年前にまったく別の集団によってなされた。この時の移住者は東南アジアで興ったイモルイを栽培する農耕技術をもち、カヌーを巧みに操る人々であった。南大西洋のポリネシアやミクロネシアの島々へも拡散していった。アジア大陸の北側では、最終氷期の寒冷な気候が緩み始めた一万四千年ほど前からベーリング海峡はベーリンジアと呼ばれる無氷回廊になった。ここを人々やマンモスが通過したとする説が有力である。考古学の証拠などから北アメリカに渡った人々はかなりのスピードで南へ進んだことになる。赤道を越え、南アメリカ大陸の最南端へも一万年ほど前に到達したようである。出アジアによってまだ農耕も家畜飼育も発明されていない一万年ほど前までに、地球上の大半の陸地は人間に居住されることになった。人間が多様な環境でいきることができたのは技術面や社会面を含む文化の発展に依存するところが大きい。熱帯起源の人間にとって、寒冷地に適応する上で大きな障壁は食物の獲得であったろう。イヌイットなどが伝統的な狩猟生活を送っていた頃の観察記録によると、カリブー(トナカイ)やサケ・マスなどであった。これらの動物を安定して獲得するには狩猟・漁撈の技術的な進歩に加え、気候や動物の生態に関する理解や、人々の協働など社会文化的な進歩が必要だったにちがいない。農耕の発明以前に、狩猟採集民として生存可能な人口は何人くらいなのだろうか。ある環境に生息可能な動物の最大の個体数は環境収容力と呼ばれ、利用可能な食物の寮から推定される。考古学者のフェリク・ハッサンは地球上の陸地をやっつのバイオームにわけ、それぞれに人間が食用できる野生動植物量から人口支持力を推定している。この推定はあらいものだが、人間が狩猟採集民として地球上に生存できる最大数は一千万人程度としてよいであろう。
 今から一万年くらい前、地球上のいくつかの地域で農耕が開始された。人間の生き方を抜本的に変える出来事であり、しばしば農業革命とも呼ばれている。ただし、狩猟採集生活から農耕生活へは何百年あるいは一千年以上かけて徐々に変化したようである。ユーフラテス川流域における最近の考古学調査によると、発掘された小麦の中で栽培種が大多数を占めるまで三千年もかかっている。この発見は、人々が長期に渡り、農耕だけでなく野生種の最終も行っていたことを示唆している。食物連鎖の連鎖の制約を逃れたことでそれまでと比べならないほど急増した。一万年くらい前から人口が急増しており2、三千年の間に約800万人であった人口が数千万に増加したとされている。デンマークの経済学者エスターボズラップが人口増加が農耕の開始の引き金になったと主張し大きな議論が巻き起こった。人口増加と農耕の進展は相互にフィードバックしながら進行したはずなので、どちらが引き金になったかを論じることにそれほど意味はないかもしれない。農耕は定住生活をともなった。固定したメンバーが日常的に顔を合わす社会がつくられ、土地や生産物を所有するという概念が生まれたことであろう。その結果、財の蓄積、社会関係の高度化・複雑化、情報量の増加が徐々に進む一方、居住環境の悪化という新たな問題も生じることになった。排泄物の蓄積などによる衛生状態の悪化と感染症の流行に人類は苦しめられてきた。また高密度の居住と大量に資源を利用する生活は、周囲の環境への負荷、とくに森林の消失や耕作地の土壌の疲弊を引き起こした。
 農耕といっても栽培化された野生植物が生育する地域で、環境条件にあった農耕文化が生まれた。とくに重要なのは、収穫の季節性の有無と収穫された作物の貯蔵可能期間であろう。熱帯雨林で興ったイモ類の農耕の場合、収穫は通年可能なものの、イモは水分が多く長期の貯蔵や遠距離の運搬にてきさない。一方、穀類を栽培する農耕では、特定の時期に植え付けや収穫の作用が集中するし、水分の含有量が少ない作物は長期の保存が可能で余剰作物としての価値が高い。家畜化も、対象となる野生動物の生息地で起きている。重要な家畜動物のうち、ウシ、ウマ、ヤギ、ヒツジの家畜化はムギ類の農耕文化圏で、ブタとニワトリの家畜化はイモ類の農耕文化権で始まったと考えられている。家畜の用途としてとくに重要なのは乳の飲用と耕作や運搬への畜力としての利用であり、家畜の恩恵を特に大きく受けたのはムギ類の農耕文化圏であった。各地で起こった農耕は、品種改良などの技術革新をともないながら周辺の地域へ伝播していった。貯蔵期間が長い穀物は余剰生産物としての価値が高く、これらの農耕文化圏では職業文化をはじめとする社会の高度化や文化の発展が進んだ。このことは、すべての古代文明が穀物を栽培する農耕文化圏でおこったことに如実に示されている。
 世界人口は18世紀に入ると増加速度を早め始めた。第二回目の人口急増である。この人口増加は欧米諸国における死亡率と出生率の顕著な変化によって引き起こされたもので、人口転換と呼ばれている。イギリス1880年ごろから死亡率と出生率が低下をはじめて、1930年ごろに人口転換が終了したとみなされている。これは多産多死から少産少子にいたる変化をしめしている。イギリスで人口転換が始まった時期は産業革命が開始された時期と一致している。農業の形態も変わり労働力としての子供の価値が低下する一方、教育の価値が高まり子供が高等教育を受ける機会が増大した。死亡率の低下に最も寄与したのは食糧生産の工場による人々の栄養状態・健康状態の改善であった。また窓ガラスの使用や庶民の石鹸の使用など、衛生面での改善の影響も指摘されている。
 ここからは視点を変え、人口が変化する過程を二つの具体例から見ていく。最初はパプアニューギニアのギデラ人である。2000人ほどで一つの言語属を形成し、ほとんどの結婚はギデラ人同士で行われている生物学では個体群と呼ばれている。ここでも近代化の影響がみられ、一番の要因が看護師が常駐する保健センターが中心部の村につくられマラリア治療薬が入手可能になったことと、年に一回は医療団が村を訪れ乳児に予防接種するようになり、こどもの死亡率が激減したことである。ギデラ人の平均寿命は約40年から約50年以上に延長した。出生数も5.5をこえることになった。ギデラの社会で観察された人口動態で興味深いことは二つある。まずは伝統的時代の0.2%いう人口増加率である。人口が倍増するのに350年かかるが、ムギ類の工作が始まった中東における数千年の人口増加率は0.1%としているので、高すぎるかもしれない。またギデラ人は適応しやすい内陸部と適応しにくい周辺部の両方に居住していることである。人口が徐々に増加し人口支持力に近づくと、適応しにくい環境に進出していったと考えられる。
 二つ目の事例は日本列島である。最初の人口急増は縄文時代の紀元前6000-5000年から紀元前3000年にかけて起こったようである。野生植物だけでなく、焼畑作物を含む植物性食物の利用技術が進展したためと言われる。ただし人口が最大になったときでも25万から30万ほどだった。第二の急増は弥生時代に入った紀元前3世紀ころにはじまり紀元8-9世紀まで続いた。このときは水田稲作の技術が西日本おしsて東日本へと伝播したじきであった。8-9世紀から人口停滞期に入る。理由は明らかではないが、政治社会制度が疲弊したことや、夏期に旱魃が起き稲作の生産量を低下させたことが指摘されている。外来の感染症による影響も大きく、特に天然痘が8世紀ころから猛威をふるい凶作の年などに大流行を繰り返すようになった。735-737年の3年間だけでも全国の人口の25-35%が天然痘により死亡したと推測されちえる。14-15世紀に入ると人口増加率は上昇に転じ、17世紀頭から18世紀に至る第三の人口急増期を迎える。1600年に1227万であった人口は1721年に3128万に増加している。この間の年平均増加率は0.8%に近い。その原因の一つとしてムギ類やさつまいもなどが作物に加えられ食糧生産が安定化したことが挙げられている。それとともに社会制度の変革が大きく影響した。14世紀のころから小農民として自立する傾向が広がり始め、生涯未婚者や晩婚者が減り多くの農民が適齢期に結婚するようになり、出生率を上昇させることになった。この変化は中世ヨーロッパで黒死病により労働力の需要増のために土地所有農民の地位を獲得したことに類似している。1721年以降、人口は横ばい状態あるいは減少傾向になり、1792年には2990万と最低値を記録している。飢餓や堕胎などが頻発し、社会が停滞したとする説が広く認められてきたが、最近では意識的な人口抑制により一人当たりの所得を上昇させたとするプラス面を強調する説が支持を集めている。1880年ころから工業化と共に人口が急増し始めた。普通死亡率が約30パーミル、普通出生率が約35パーミルであったものが、死亡率だけが低下し始めた1870-80年代を日本の人口転換の開始とみることで一致している。人口転換は1950年代に終了したとみなされ、この過程で日本の人口は大きく増加した。75年間で3596万人から8928万人へと2.5倍になった。日本で起きた四回の人口急増の原因について地球規模での人口変化と比べながら考えてみたい。弥生時代に起きた第二の急増は農耕の生産性向上のおかげである。第三の急増をもたらした理由は市場経済化に伴い農民の多くが生殖力の高い年齢で結婚するようになったことである。これは産業革命の時にヨーロッパで生じた社会変化と共通性がみられる。そして、最後の急増は工業化とともにはじまったもので、日本版の人口転換であった。日本の四回の急増の程度がとくに大きかったのが第二と第四のきゅうぞうであり、それらの原因が農耕の開始と産業革命・工業化だったことは地球規模での人口増加の主たる原因と共通している。
 人間は誕生して以来、成員数が増えることを望んできたが、18世紀後半にはってトマス・ロバート・マルサスにより人口増加の警鐘が鳴らされた。彼は1798年に著した人口論の中で食糧は人間の生活に不可欠であり、両性間の情欲はこれからもかわらないことを前提に、食糧生産は算術級数的にしかぞうかしないのに人口は幾何級数的に増加すると述べた。そして第二版以降では人口抑制の必要性を説いたのである。この頃のは年人口増加率は0.4%程度であった。1974年の世界人口会議では人口爆発という言葉が頻繁に用いられた。1994年カイロで開かれた国際人口開発会議では避妊や中絶に直接言及せずに、妊娠・出産・育児における女性の権利擁護を重視したリプロダクティブ・ヘルス、それを保証するリプロダクティブ・ライツの重要性が強調された。地球規模での人口増加の抑制を目指す立場からも、女性の教育機会の拡大や社会的地位の向上が出生率の低下に寄与するので、懸命な取り決めと評価されている。20世紀半ばに人口転換を終えたヨーロッパ諸国は人口増加率を低下させていき、いれかわるようにアジア、ラテンアメリカ、アフリカの国々が人口増加率を上昇させ始めた。ヨーロッパでは2005年には死亡率が出生率を上回り、人口増加率はマイナス0.1%になった。日本でも人口増加率は2005年にマイナスに転じている。2050年にインドと中国だけで全人口の三分の一を占めること、アフリカの増加率が特にたかくなること、先進国の人口が占める割合は13-14%になることがわかる。人口減少を迎えた国では人口を増やすためのさまざまな取り組みが行われており、人口政策を福祉政策や労働政策とうまくれんたいづけた場合に、人口の大幅な減少の阻止に成功している。ただし、先進国全体として見ると人口はほぼ横ばいで推移すると予測されるので、今後は人口ゼロ成長を前提に成熟した社会づくりを目指すのがとくさくといえよう。生産年齢人口の割合の上昇は人口ボーナスと呼ばれ、経済成長に有利に働くことになる。日本は生産年齢人口割合が1960ねんころから上昇をつづけこの割合が低下し始めた1990年代前半まで人口ボーナスの恩恵を受けたことになる。人口ボーナス現象は途上国、とくにアジア諸国で顕著にみられている。
 人類は誕生して以来、周囲の環境にはたらきかけ、自然界ではあり得ないレベルに人口を増加しつづけてきた。農耕の開始時直前には1000万、2050年んいは90億をこえようとしている。筆者は地球の人口支持力をの分析をする。

 第三章「人類にとって海はなんであったか」では、、、人類の学名はホモ・サピエンスだが智慧ある人を意味する、こうした定義の一つにホモ・モビリタス(移動する人)がある。700万年前に直立歩行を始めた人類あその後地球規模の移動と定住の契機は三つあった。一つ目は出アフリカ、二つ目はモンゴロイドの拡散、最後はヨーロッパ人の拡散である。アフリカを出た人類は西洋と中洋(南アジア、西アジア、中央アジア)に拡散した西ユーラシア人(コーカソイド)、東洋に拡散した東ユーラシア人(モンゴロイド)である。まずモンゴロイドの拡散について取り上げる。6万年前に東南アジア大陸部に淘汰する。そこから彼らは二つに分かれてさらに進出を続ける。当時はウルム氷期がはじまったところで、海水面の低下によって、二つの大きな陸域が形成されていた。インドネシアの伊s真島を中心とするスンダランド、ニューギニアとオーストラリアとが一体化したサフルランドである。世界の動物区の重要な区分にアジア区とオーストラリア区がある。スンダランドとサフルランドを分ける海は動物にとっては当時でも移動不可能な障壁であったからである。しかしモンゴロイドはそこを超えてサフルランドに進出していく。6万〜4万年前と推定されている。両者を分つ海域に所在する島々の感覚は最大で80キロメートルほどあり、その渡海は筏によっても可能であったろう。東南アジア大陸部に達したモンゴロイドが選択したもう一つの進出方向は陸域を北上して北方ユーラシアさらには極北へとむかうものであった。一般に緯度に並行する東西移動にくらべて、緯度に対して垂直方向となる南北移動はより困難である。しかも最終氷期の最盛期での北上である。モンゴロイドは氷河時代終末期の一万数千年前に北極海沿岸部に到達する。当時のベーリング海峡一帯は、海水面の低下によってベーリンジアと呼ばれる陸域が広がっていた。しかし1万3000年前ころには温暖化による海水面の上昇によってベーリンジアは水没し始める。その直前の時期にベーリンジアを経てモンゴロイドはユーラシアからアメリカ大陸に進出する。日本では縄文時代が始まる頃である。それから1000年で1万4000キロを移動して約一万年前に南アメリカの最南端フエゴ島まで達する。出アフリカに始まった現生人類の移動と定住は一段落する。この時期までの移動は二つの特徴があり、大移動だったことと陸域の移動だったことである。広大な海洋をいちはやく移動空間として人類史に編入していったのはモンゴロイドであった。オーストロネシア語系集団の太平洋進出である。約6000年前にかららは東南アジア島嶼部へと進出していく。この時期の彼らの東方進出は陸域経由でなくカヌーによる渡海であった。太平洋の島嶼分布は南西部から南部一帯に偏在しているが、ニアー・オセアニアとリモート・オセアニアに区分して考える。ニアー・オセアニアの東端に近いニューギニア北東方にビスマーク諸島とよばれる島々がある。そこに約3600年前に特有のどきをもつオーストロネシア語系集団が出現する。彼らはラピタ人とめいめいされ、リモート・オセアニアへの人類拡散にあたって重要な役割を果たす。その後の拡散は三つの段階を経ている。約3500年前のラピタ人によるトンガ諸島またはサモア諸島への拡散、約2500年前のラピタ人の子孫であるポリネシア人によるタヒチ島などのソシエテ諸島への拡散、そして1500年前の太平洋東南端のイースター島への拡散である。それ以外には1700年前にハワイ諸島、1000年前にニュージーランドへ拡散したとされる。これらの拡散は船のイノベーションに支えられていた。ダブル・カヌーの登場である。横並びにした二隻のカヌーを横木と甲板で連結した双胴船で、カニのハサミ型の四角帆をそなえた帆船であった。1769年にタヒチ島に寄港したクックは帆走するダブル・カヌーを描いた絵を報告書にのせ、アウト・リガーを装着しなくても安定した航行が可能なことなどを説明している。全長30メートルのダブルカヌーでは30人の人間と食糧・飲料水を積載して数十日の航行が可能であったという。
 コーカソイドの拡散についてはヨーロッパに向かったコーカソイド集団は陸域の西端に到達したが、大洋へ進出しなかった。このような違いの要因としては暖かい海と冷たい海の違いにあったとする。モンゴロイドが拡散した海洋は暖かい海で、コーカソイドが渚で停まった海洋は冷たい海だった。暖かい海では被水は体温喪失また身体的苦痛の要因にはなりにくい、浮揚力のあるぶったいであればどれもが移動手段となった。被水がくつうでないので舷板などの波除け装置を必要とせず、船の重量を軽減できるだけでなく、櫂を水面に垂直に下ろして手漕ぎするのを容易にする。いっぽう冷たい海では被水は体温を奪い最終的には死にまで追いやる海である。冷たい海では波きり板と舷板をもつ箱舟のような構造が必要だった。また暖かい海に乗り出したモンゴロイドが達成した確信はアウト・リガーの開発である。それを舷の片側のみに取り付けたものをシングル・アウト・リガー船で、両方に取り付けたものをダブル・アウト・リガー船と呼んでいる。さらに長距離航海が可能な大型ダブル・カヌーを開発したポリネシア人は南アメリカ西岸までにも達していたと考えられる。それを示すのがさつま芋の太平洋海域への導入である。現在、サツマイモは南太平洋の島々またニューギニアの重要な主食作物である。その原産地は中央アメリカのメキシコからグアテマラあたりとされ、4000年前ころには南アメリカのペルーでも栽培されていた。東南アジアへの伝来は南アメリカの西海岸に到達したモンゴロイドによってなされたと考えられている。さらに東南アジア島嶼部から西インド洋にも漕ぎ出す。マダガスカル東岸部に到達したが、到達時期は7-8世紀以前とされるが、2000年前とする説もある。その拡散もかられのエクメネの拡大であった。マダガスカル共和国の公用語であるマラガシー語はオーストロネシア語系に属している。また無耕起稲作技術は東南アジア島嶼部の低湿地に見られる特有の稲作であるが、インド半島の東海岸、スリランカ島南西部、そしてマダガスカル島東海岸の湿潤低地に点在しつつ分布する。いずれもオーストロネシア語系に属するマレー系海民の活動世界である。さらにアラビア海をかこむインド半島西海岸またアフリカ東海岸では、アウト・リガー船が漁船や小型船舶として使用されている。ただ喜望岬を就航して大西洋に及ぶことはなかったと考えられる。その冷たい海に挑戦しようとしたのが西洋コーカソイドであった。彼らは箱舟+オール型を大型化していく道、大型構造船を建造した。大西洋に進出していくのは15世紀になってからのことであったが、ヨーロッパではもっとも暖かい海に属するポルトガルとスペインから開始されるのは興味深い。ブラジルでもアフリカ側のギニア湾岸でも温暖湿潤の主食作物はキャッサバである。その原産地は前記のサツマイモと同じ中央アメリカのメキシコからグアテマラ一帯および北西ブラジルの二カ所とされている。定説はギニア湾岸のキャッサバは16世紀になってブラジルからポルトガル人によって伝えられとする。しかし、筆者はこの定説に疑問を呈す。筆者の西インド諸島の最南端に近いバルバドス島の首都ブリッジ・タウンでの経験で、市街地の背後の微低地の公園でバオバブの巨木が立っていたという。その樹齢は1000年と推定されている。バルバドス島にスペイン人が到来したのは1518年なので、その推定が正しければバオバブ樹はスペイン人到来のはるか以前からそこにあったことになる。バオバブは石アフリカのサバンナ地帯を代表するキタワ科の樹木である。バオバブの種は長期にわたる養生漂流に耐えることはできないと考えられる。とすると人間によって持ち込まれたのではないか。同様の交流をキャッサバについても想定することができるのではないか。
 海域世界は陸地に取り込まれた海域を成立場とするものと、もう一つは大洋を成立場とするものである。太平洋ではアウト・リガー船や大型ダブル・カヌー船を航行手段とし、リモート・オセアニアの島々をノードとする海洋ネットワーク空間が形成されていた。しかし人類史においてより重要な意味をもったのはインド洋海域世界であった。インド洋は太平洋や大西洋に比べて規模が小さい上に、本体部分が北と南の両回帰線内にいちしているため、優勢な寒流の流入もない暖かい海であった。しかも季節によって風向きをほぼ真反対に変化させるモンスーンが規則的に吹き渡る海である。この風との摩擦によって海水にも吹送流が生じ、風も海水も同じ方向にながれていく。これは帆船の航行にとっても好条件であった。温帯に暮らす人類は湿潤熱帯の香辛料への選好は古代から存在していた。その分布は赤道周辺の三カ所に集中している。アジアの東南アジア島嶼部とマラバール海岸、南アメリカのアマゾン流域、アフリカのコンゴ川流域である。南アメリカとアフリカの熱帯降雨林は共に大西洋に河口をひらく大河の内陸盆地性の流域に分布するため、世界交易への参入は大航海時代以降になる。同時代以前は長い歴史を通じて、東南アジア島嶼部とマラバール海岸が独占的な供給地であった。インド洋は他の二つの大洋にない条件をそなえていた。インド洋はほぼ北回帰線あたりで北辺をアジア大陸によって閉ざされていることにより暖かい海になっていた。しかもインド洋のほぼ中央部にはアジア大陸から赤道方向にむけて逆三角形の巨大な陸塊がうちこまれている。こんインド半島によってインド洋は東のベンガルワンと西のアラビア海とに二分される。インド半島の歴史的な役割はインド洋を東西二つの海域に分断すると同時に、両者を統合するという両義的な役割にあった。その先端に位置するのが熱帯降雨林隊を含むマラバール地方であり、古代からのインド洋交易の代表的な熱帯産品であるコショウの原産地であった。インド洋を活発な交流の海へと変えていった主体は中洋に拡散したコーカソイドと東洋に拡散したモンゴロイドであった。
 ここからは中洋のコーカソイドの活動を検討していく。古代におけるインド洋海域世界の形成を確認できる文献資料は紀元一世紀後半にエジプトで成立したとされる「エリュトラー海案内記」である。エリュトラー海とはギリシア語で赤い海を意味するが、当時は現在の公開だけでなくインド洋全域を指す言葉であった。エジプトからインド半島南端までの港湾事情と商品地理に関する案内記で作者は同海域で実際に活動したエジプト在住の公益商品と推定されている。同書ではマラバール地方のムージリスの輸出品として、大量のコショウや内陸からのニッケイ・透明石・ダイヤモンド・サファイヤなどに加えて、クリューセー島(マレー半島付近)の鼈甲などを挙げている。マラバール地方がガンジス川流域や東南アジアの諸産品の集散地であったことを語っている。博物誌の著者プリニウスは同じ時代の軍人政治家であったが、ローマ帝国からインドへの金銀貨の大量流出を嘆いたことはよく知られている。これに類似した状況ははるか後代の18世紀にも起こり、イギリスではインド熱とよばれたインド産綿花製品への熱狂的なブームが起こった。それが産業革命の一因となる。同書ではインド半島の西方と東方で船の構造が違うことを記している。西方ではアフリカ大陸北東部のソマリアあたりで「縫い合わせて作った小舟や丸木舟がある」とが書かれており、一方コモリン岬の東方では「非常に大きな丸木舟をくびきで繋ぎ合わせたサンガラと呼ばれる船」のことを述べている。
 アラビア半島南西端は西アジアでは例外的な夏雨型のやや湿潤な地帯である。その産地は夏には緑で覆われ緑のアラビアと呼ばれる。エリュトラー海案内記が同半島南西端を幸福なアラビアと記載しているが、それは緑のアラビアのことである。別の研究では同海域で縫合船の原材料として重用されたきたのは緑のアラビアで栽培されていたココヤシであった。ただココヤシの導入は11世紀以後のこととされ、エリュトラー海案内記に記載がある縫合船がココヤシ樹を原材料としていた可能性は低い。またサンガラ船の記載はダブル・カヌーを想起させるが、ダブルカヌーの開発はエリュトラー海案内記と同時期にあたる約2000年前であったので、ベンガル湾海域で利用されていたとするのは無理とする。
 また同時代資料が中国でも見出されて、漢書地理志の粤地条の記事である。それは南越(華南)の港市から南西方向に向かうルートの解説であり、港市をでて南に海路で五ヶ月、おなじく海路で四ヶ月と二十日でしんり国に到着する。そこから陸路で十日行き、さらにカイロで二ヶ月行くと黄支国に達する。さらにその南方には已程不国があり、漢の通訳はそこで引き返すと書かれている。この陸路の記載はマレー半島の最狭部を陸路で横断したのち、ふたたび海路でベンガルワンを直進して南インドに達する行程を語っているとしか考えられない。黄支国は遺パンに南インド南東部のカーンチープラムに比定されている。已程不国はコモリン岬付近にあった港市国家と考えられている。
 エリュトラー海案内記と漢書地理志の記載や、インド洋海域の各地から古代ローマの貨幣が出土しており、同海域が地中海世界と密接に結ばれていたことを示している。このようにユーラシア大陸の南縁をとりまいて、各海域をつらねる交易ネットワークがすでに紀元前後の時期に形成されていた。これを大海域世界と呼ぶ。この大海域世界の成立には東西両端の陸域を占める大帝国の存在を重要な契機としていた。一世紀をとれば東端には漢帝国、西端にはローマ帝国があった。インド亜大陸ではその全域を版図とする大帝国の形成は近代になって初めて達成されたその理由はヒンドゥー文明圏に属しつつも海洋インドという解放性と先住民集団であるドラヴィダ的諸要素を背景に、独自の性格を保持してきたからである。インド半島南部の海のインドは北方の陸のインドと政治的に一体化することなく、独自の国家を生み出し続けてきた。パッラヴァ王国はその初期の好例である。ヒンドゥー文化複合の東南アジアへの伝播と受容をインド化と呼んでいる。それは宗教のみにとどまらず、思想・儀礼・都城・建築・彫刻さらには稲作農耕技術までおよぶ広汎な文化変容であった。現在も東南アジアの文化の基底にインド的要素があるといわれるのも、この時期のインド化に由来する。このインド化の基盤に二つの強力な二つの強大なヒンドゥー帝国が生成する。一つは大陸部のクメール帝国、もう一つはシュリーヴィジャヤ・シャイレーンドラー帝国である。シュリーヴィジャヤ・シャイレーンドラー帝国はマラッカ海峡両岸一帯を支配する海洋国家であり、マラッカ海峡の安全航行が実現し、インド洋海域世界が東南アジア島嶼部の熱帯降雨林帯と直結され、さらにインド洋海域世界から中国世界への直航が可能になった。
 大海域世界の西部に目を転じると、イスラーム帝国の出現という大きな変化があった。クルアーンでは「二つの海を解き放って縫い合わせ」という表現があるがこれはインド洋と地中海だという。また沙漠と海は対極的だが砂礫や水に満ちた空間の中にオアシス都市や港市が点在していて、それを隊商路や航路が結んでいるというネットワークが似ているという。さらにオアシス都市も港市も水質の良い飲料水の安定供給を重要なら機能としている。もちろん違いもあり、大きいところでは輸送力であり交易のあり方に影響する。ラクダ輸送は輸送負担の小さな軽量かつ高価なら商品であり、海洋の船舶輸送は多様な日常生活財も対象としうる。イスラーム帝国は海洋を取り込んだ帝国であった。特に750年に成立したアッパース朝はその性格が顕著であるった。こうして八世紀中期には文明圏を基盤として大海域世界の関係陸域に者帝国が成立していく。東アジア世界には唐、東南アジアにはクメール、同島嶼部にはシュリーヴィジャヤ・シャイレーンドラー、インド半島にはパッラヴァ、西アジアと地中海南岸一帯にはイスラーム、そして地中海性北東部にはビザンツが”文明圏帝国”として関係陸域と海域を、包括したら成立する。ペルシア湾のスィーラーフあたりの航海商人の著作とされる中国とインドの諸情報には東は広東、西は南アフリカ中古海岸のキルワまだ及ぶ交易ネットワークにて、広東からスィーラーフまでの道が示されている。このときも中国人の西限はマラバールであった。またマラバールなののインド半島南部は放散のセンターでもあり、インドから東南アジアにはインディカ型イネが利耕技術などの農耕技術と共に伝わった。また西方にも影響を及ぼし、アッバース朝は豊かなメソポタミア平原を有していたが乾燥地帯であるため栽培は小麦などの冬作物に限られていた。夏作物はこの時期にインド半島から伝播し、メソポタミア平原の灌漑地帯に夏冬二毛作を基軸とする農業集約化が実現した。また13世紀にユーラシアの海陸にまたがるモンゴル帝国の成立は大海域世界の交流をさらに活性化させた。13世紀末にマルコ・ポーロが中国からの帰途にマラバールに来訪し、同地の産品を詳しくしるした。1342年にイブン・バットゥータもマラバールを訪れ中国船の来航はヒーリーまでと記し、カリカットで中国のジャンク船に乗り変えている。1368年にモンゴル帝国が解体されると、東南アジア島嶼部ではイスラーム化し、大陸部は仏教化していく。海域世界はモスレムの海という性格を強めていく。ここでもマラバールは繁栄を続け、1405年に南海遠征に出た鄭和も、1497年にポルトガルから出航したダ・ガマもマラバールの中心港市カリカットに最終目的地を設定していた。
 ここでポルトガルのインド洋海域世界への進出を取り上げる。中国で流布していた地図を元に1402年に朝鮮王朝で世界地図が作成される。これはアフリカを海に囲まれた大陸として描いた現存最古の世界地図とされる。それに対してポルトガルは100年遅れた1502年にカンティーノ図によりアフリカを環海大陸として描出するとともにインドへの海道を示した。1405年からはじまった定和の南海遠征の画期性は中国艦船がマラバールを超えてインド洋西部海域世界に深く乗り入れた点にある。モスレムの海になりつつあったが、鄭和自身がモスレムであったので、ネットワークに参入するのは容易だったかもしれない。1413~15年の第四次遠征では東アフリカの現在のケニア北部海岸のマリンディに到達した。彼らは現地名であるキリンを伴っていたが、発音が中国での架空の動物である麒麟であるので大歓迎された。ダ・ガマが第一回公開で到達したのはマリンディであった。ダ・ガマがマリンディを出発したのは鄭和が到達した66年後でポルトガル戦隊がマラッカに来航したのは1509年だった。ダ・ガマの成果をもとに作成されたのが1502年のカンティーノ図である。同図では地名とともに商業情報を細かく記入しているが、カリカットとマラッカは大きく扱われている。鄭和の遠征がインド洋海域世界のイスラーム・ネットワークとの矯正するものであったのに対し、1511年のポルトガルのマラッカ攻略は同ネットワークの破壊と奪取をめざしたものだった。ポルトガルについでヨーロッパの列強がインド洋海域世界に進出して東インド会社を設立する。イギリス1600年、オランダ1602年、フランス1604年、デンマーク1616年、18世紀になったオーステンド、スウェーデンである。大海域世界はヨーロッパ人の海とかしていく。東南アジア史家のリードはこの時代を大交易時代とよぶが、在地国家も利益を求めて変容していく。スコータイを根拠地とした王朝は、アユターヤーに根拠地を移したタイ王朝に変わる。さらに原王朝のチャクリ朝はバンコクに根拠地を移している。
 19世紀には蒸気船と蒸気鉄道の登場により状況が大きく変化する。それまでは外部からの襲撃をさけて小島嶼や小河川の河口部に一する港市がおおかったが、蒸気船に対応するため水深が大きく広い後背地が求められた。港市の淘汰が起こり、マラバールの諸港市はかつての栄光を失う。一方で大々的な築港工事によってムンバイ、チェンナイ、コルカタなどが近代的港湾へと成長するとともに埠頭への鉄道の引き込みも行われる。このときにヨーロッパ列強の大海域世界への関与のあり方が変わり、港市=点を通じて交易機会への参入という関与から植民地=面のシャイという帝国主義的な関与に代わる。鉄道の時代の到来は先進国にとっては文明の先進の指標だったが、非ヨーロッパ諸国にとっては植民地化の指標であった。このときヨーロッパ列強が異民族の植民地支配のために持ち込んだのが法による支配であり、法の権威を顕現する施設として、総督官邸や高額法院などの公共建造物を建設した。
 ここでヨーロッパ人の拡散の帰結について触れる。(1)北方アジア、南北アメリカ、オーストラリアは西洋コーカソイド集団の圧倒的な軍事力また彼らが将来した感染症によって、線中のモンゴロイド集団は致命的な打撃をうける。(2)アフリカへの移住はなかったがヨーロッパ人の奴隷貿易によりネグロイド集団の分断と人口減少をもたらせた。(3)北方をのぞく東洋のモンゴロイドと中洋のコーカソイドの領域は西洋コーカソイドの到来によって先住民社会が決定的に変容することはなかった。彼らによる植民地化を、歴史の中の一エピソードとする強靭な社会を持続した。また海にも変化を及ぼし、比較的に陸域の権力から独立して営まれていた港市はシャー・バンダル制がとられていたが、次第に陸域の支配権に編入されていき陸域国家による海のエンクロージャーへ進展していき、距岸200海里の設定として具現化されている。

 第四章「宗教は人類に何をもたらしたか」では、、、 日本では敗戦後にGHQにより国家神道を禁止され、日本政府は政教分離を徹底し、日本人の宗教観の喪失を招いた。イスラームは第二次世界大戦後の混乱した世界にあっても、なお人々の生活に深くしみいきいきと脈打っていると聞き、筆者はイスラームの魅力や意義を歴史の観点から極めようとして、社会経済史を選んだ。一方で文明の衝突という書籍が出たと思うとアメリカの911のテロによる報復でアフガニスタン空爆やイラク戦争へと武力制圧の試みに多くの国が巻き込まれた。近代が産業革命を端緒として列強が世界を制覇したことから、欧米の価値観を普遍的価値感として享受し、歴史観もそれにならった。しかし人類の歴史を過去であれ未来であれ、もはや欧米の歴史観を基準値として押しはかることは許されないであろう。
 宗教は国家と結びつくと変質する。キリスト教も392年に異教禁止令によって排除の原理が決定的となる。テオドシウス帝がエジプトの非キリスト教の宗教施設・神殿を破壊する許可を与えると、暴徒化したキリスト教はアレクサンドリアのセラピス神殿や図書館など、異教の記念碑や神殿を破壊した。415年にはもっとも著名だった女性哲学者ユパティアが虐殺された。暗黒の時代と呼ばれる中世ヨーロッパはキリスト教が影響している。十字軍でイスラーム世界と接触し、イスラーム世界から地中海制海権を奪取する。地中海沿岸イスラーム諸都市への海賊的襲撃と富の奪取。金銀類がなくなるとイスラーム教徒の男女を略奪して、奴隷として売るが身代金を要求した。この資金でアジアと香辛料貿易を可能にし、イタリア諸都市は富の蓄積し、ルネサンスでの芸術として転化された。イベリア半島の征服し終わると、アメリカ大陸の発見と征服の書いてで、先住民を大量虐殺する。その根底にあるのは宗教的正義にもとづく排除の原理と異質な他者に対する不寛容である。
 排他的な原理を伴った形での国家と宗教の結合は、我が国の場合、明治期の国家神道に見ることができる。国家神道の起源は江戸時代の中期に古事記・日本書紀や万葉集などの古典文献学的研究をもとにした国学にあった。国学者は儒教や仏教が渡来する以前の日本の文化的精神的現像はかくあったと主張し、日本人としての同一性を訴えた。国学思想は本居宣長・平田篤胤を経て復古神道の唱道となって展開し、幕末期には尊王攘夷論となって幕藩体制を揺るがした。政治イデオロギーと化した尊王攘夷は尊皇倒幕へと変質し、明治維新によって天皇を中心とする新政府が成立した。政府は天皇の神権的権威の高揚を図る上から復古神道説を主張する国学者や神道家を登用し、新たな宗教政策を行わせた。それは神仏習合を否定し神道以外の宗教を排除するものであった。この結果、これを是とする人々が各地での廃仏毀釈運動を巻き起こした。このような過度な運動や仏教側の抵抗もあって、明治政府は行き過ぎを認めたが、第二次世界大戦に敗れるまで変わらなかった。神道国教化政策に大きく立ちはだかったのは憲法制定という近代国家の原則であった。近代国家の一つの要件として政教分離にもとづく信教の自由を盛り込まなければならなかったが、これは神道の国教化政策に矛盾することになる。これに対して政府は神道は宗教でないとの法解釈を下し、全国の神社は内務省神社局が所管した。国家神道を国民に徹底化させるために1890年んい明治天皇が国民に直接かたりかける教育に関する勅語が発布された。現代人からすれば学校教育で教育勅語を発布した。内容をかいつまむと(1)天皇家の先祖は道義を重んじる国家の樹立を心がけたが臣民もよく忠孝につくし心を一つにして美徳を発揮してきた。これこそが我が国体の精華であり、教育の淵源である。(2)臣民らは父母に孝行し、兄弟は仲良く、夫婦は仲睦まじく、友人とは信頼し合い、人に対して恭しく自分の行いは慎み深く、人々には博愛の心で接し、学業に励み仕事を身に付け、才能を磨き人格を高め、進んでよのため人のために尽くし、憲法を重んじ法律を遵守し、(2)ひとたび国家の一大事になれば、正義と勇気をもって国家に奉仕し、永遠なる陛下の御運が栄えるように努力しなければならない。これは汝ら祖先が残した美風を顕彰することでもある。(4)この教えは天皇家の祖先が残した教訓であり、皇族も臣民も守るべきものであって、古今東西を問わず誤りなきものである。(5)朕は汝臣民とともに胸中に銘記して、一体となってその徳の道を歩むことを願うものである。教育はの原則は知育・徳育・体育の三本柱からなっていると言われるが、この勅語は徳育に重点が置かれている。(2)で解かれている徳育は人類共通する徳目も多く、問題はこうした伝統的な道徳観を天皇の名の下に神聖視して、国家神道の一翼とし、これを基本的道徳としてことであろう。1948年に教育勅語は国会にて排除・失効の決議がされたが、日本人は倫理観の拠り所を失った。国家とは何かを考えざるを得ない世界の人々にとって、一つの教訓を与えている。
 近代以前は人民は支配者の主教に従うのが原則であった。奈良時代の仏教は国家仏教と呼ばれることがあるが、律令国家の最高主権者である天皇が公的に仏教を受容したことに対応している。天皇を中心とする日本の支配者層は百済再興のために派遣した大群が663年に白村江の海戦で唐・新羅の連合軍に退廃して以来、危機感を強め、国内の支配体制を強化するために、急ぎ中国の律令制を継受した。その最初の事業が天智天皇によって作成された全国規模の戸籍であった。その後、壬申の乱に勝利した天武天皇は、結果として独裁的な権力を手中にし、皇親政治の確立と律令国家の建設を目指したが同時にみずからの権威の高揚にも努めた。主教的絶対的権威に裏付けされた意味での天皇号を称したのは天武天皇が初めてであり、その遺志を継いだ持統天皇は即位式に当たり群臣から柏手による拝礼を受け、生身の人間のまま神となったのである。法典の編纂作業はこの両天皇の治世中にも続けられ、それは天武天皇の大宝元年701年、大宝律令となって結実した。八世紀前半の日本は「国」と呼ばれる60余の地方行政区に分かれていたが、支配者層が目指したのは天皇大権を基盤とする中央集権政治であった。全国規模で戸籍が作成され、軍事のための動員令、土地は国家のものであるという公地公民の観念にもとづく一種の土地貸与制度(班田収授法) 、政策実行のための膨大な官僚群の養成などの諸政策が施行された。大宝律令は当時の日本社会では考えられないような高度な統治技術を含んでいた。日本の実情に合わない部分は修正され、宗教に関して言えば神祠官を太政官から独立して並列させた。これは神祠を律令官僚機構の中に取り込み、古来の神々に使えるものたちを国家の統制化に置くことを意味した。また太政官を古来の神々の呪縛から解き放つ意味もあった。このような神道に対する国家統制は仏教に対しても図られ、僧尼令という全27条からなる法律で僧尼を取り締まった。しかし聖天天皇が即位する頃、すなわち四世期もすぎると、次第にその政策の矛盾が露呈し、本籍地を離れて逃亡する農民が出るなど、大きな社会問題がおこりつつあった。これに対して開墾省令法、墾田永年私財法を制定し、民有権を容認して行った。天武天皇はこのような時代背景のもとに、神亀元年24歳で即位するや次々と新しい政策を出して行ったが、その政策の手法を見ると、10年間の皇太子時代に学んだ帝王学によるものと思われるものが多い。天武天皇は経史のうち史記、漢書、後漢書の三史に関心が深く、特に前漢の第五代文帝の治世を手本としていたふしがある。即位の翌年に出した死刑・流刑の軽減策はその典型で、罪人に哀れみを掛けるという聖武天皇の姿勢は儒教の徳を持って治めるという政治の基本方針としていたことを物語っている。官人に対する監督が重要だと気づき、官人の勤務の実態把握、綱紀粛正と行政の実績に応じた賞罰、官人制度改革を手がけた。長屋王はこれに対抗し、疎まれることになったのであろう。当時の経済体制の根幹を成す口分田の班給の全面見直しを経て、みずからの政治に自信をつけた聖武天皇は731年の新年朝賀の儀において、唐の皇帝と同様の冕冠冕服で身を包んだ。そして16年ぶりの遣唐使派遣を決意した。ところがこの直後に、旱魃、飢饉、地震、疫病と毎年のように天災が日本を襲ったら。737年の天然痘の大流行は多くの死者をもたらし、国民は悲惨な状況に追い込まれた。中国の「天地の異変は君主の失政に対する天帝の咎めである」とする災異思想に苦しめられた。聖武天皇は734年「多くの民が罪を犯すことになった責任は自分一人にある」と詔して、高齢者や身寄りのない者を中心に、飢餓に陥った人々の救済を事細かに指示した。ここには天災などで困った状態に陥った人を助けるという、いわば政治の原点に当たるものが見られるのであるが、その理念は打ち続く天災に見舞われた頃から、「経史の中、釈教最上」として儒教でいう徳治から儒教にもとづく救済へと変化していった。がここでいう「釈教」つまり釈迦の教えというのは天武・持統天皇による「金光明経」の流れを受けたものである。この「金光明経」というのは釈迦が国王のような国家の支配者のために説かれたとされている経典で、そこには国家とは何かという問題が含まれている。その中で一種の王権神授説が認められるが、みずからの統治権を神から与えられている以上、国王はその統治の責任を神に対して負わねばならないわけで、王たるものはそれなりの気構えをもって政治に取り組まねばならない、ということになる。その気構えについて「もし世に悪事がなされていてもこれを看過し、正法をもってその罪を矯正しなければ、悪の原因が増長して、国内に姦闘が多発し、三十三天は瞋恨の心を起こすであろう」とか「むしろ身命を捨つるも、眷属を愛せざれ」とかの文言があり、国王に対する厳しい義務が要求されている。天平9年の天然痘の大流行は聖武天皇が金光明経を政治の基本方針に据えることを決定づけた。それと同時に人々の救済を使命とする菩薩のために説かれた「華厳経」を拠り所に、日本国の安念はむろんのこと、動植物すべての繁栄を願うという趣旨のもと、その象徴として盧舎那仏の大像を新たな首都の国分寺に造立することであった。盧舎那仏とは釈迦の悟りの瞬間を象徴するもので、姿形がなく、光に満ち溢れてい宇宙いっぱいに広がっており、しかも永遠に存在しているとされている。だが聖武天皇の大事業には第一に費用の問題と遷都の問題が立ちはだかった。第二に大地震が発生し、紫香楽で始まった大仏造立半ばの工作物も倒壊するという災異であった。災異思想に縛られている当時の人々にとって、聖武天皇が進めている計画は天神地祇の瞋恨を招いたと理解されたであろう。745年ようやく平城京へ遷都し、事業は金鐘寺、かつ大和国の金光明寺で再開された。のちの東大寺である。749年大仏本体がほぼ出来上がったおりに陸奥から黄金産出の知らせが届き、天皇は盧舎那仏の前で天地自然が自分の意思に応えてくれたという勅を読み上げた。華厳経の最終章では父王が出家して王位を太子に譲る話が書かれているが、聖武天皇も出家して譲位したと考えられている。
 イスラームの歴史をさらう。ムハンマドはイスラーム共同体を成立させ、始祖自身が剣を振るって戦いアラビア半島を統一する。632年にムハンマドが死去すると共同体は分裂の危機に陥るがアブー=バルクが神の使徒の代理=カリフとなり分裂の首謀者を徹底的に排除し、分裂を回避する。そのままアラブ統一の民族的エネルギーを生み出し第制服となり、第二代カリフのウマルに引き継がれる。ウマルは国家体制を確固たるものにし、広大な版図をもつ多人種・多言語を含む大帝国へと発展させ、征服地に全権を持つ提督(アミール)や徴税官(アーミル)を派遣した。ウマルを継いだウスマーンは征服の果実の分配に不満を抱いた勢力に殺されてしまう。そこから第一次内乱が勃発し、シリア総督のムアーウィヤによってウマイヤ朝が開かれた。ウマイヤ朝はアラブが特権的な支配階級として、異民族を統治することで、被征服先住民の改宗を奨励することは、カリフーウマル二世を除いてなかった。しかし過酷な税金に先住農民は逃亡したり改宗したりした。イスラームは第一次内乱以来、政治的分裂を経験し、そのことが新たな思想を生み、学問を産むことになった。やがて大征服も含めた最初期のイスラーム教徒の実績も対象とするようになり、これがイスラーム歴史学の萌芽となった。イスラーム法の成文化運動が怒ると、法解釈とはあまりにも異なる現実のウマイヤ朝体制に批判の矢を向け始めた。それはウマイヤ家カリフ位を否定し、イスラーム国家の最高権威者の地位を預言者の血をひく者に戻すという運動を起こし、アッバース朝が革命運動を成功させた。アッバース朝の真の建設者は第二代カリフーマンスールであった。アラブ至上主義にもとづく地方文献体制を廃して中央集権による統一体制を確立した。これはアブー=バクルによるカリフ制成立以来発展してきた初期イスラーム国家体制の一種の完成形といえるものであり、後世のイスラーム教徒が回帰すべきものとして描くイスラーム社会体制である。アッバース朝が真にイスラーム帝国とされるのは、この王朝の支配者たちがイスラームという宗教な意志はイスラーム法のもつ統一性の原理を現実の国家統治のうえに適用しようと努力した時代だったからである。ただカリフみずからが聖俗両権をもって統治する支配体制は実態的には10世紀の墓場で崩壊し、カリフは宗教的権威を保持するのみで、政治の実験はブワイフ朝など、軍事的支配者の手に握られた。ここに政教分離の現象がうまれ、いわゆるディーン(宗教)とムルク(王権)並列の時代へ、さらに軍事的支配者による聖俗両権掌握の時代へシスラーム社会は大きく変容していく。複数のカリフが生まれ統一が失われ、加えて十字軍や遊牧民など東西の各地で異民族の侵入を受け、かろうじて命脈を保っていたアッバース朝カリフ位は13世紀半ばのモンゴル軍によるバグダード陥落で断絶した。そのうえ内部でも政治勢力が構想を繰り返し混迷を深めて行った。こうした危機的状況の時代に歴史家イブン=ハルドゥーンが登場する。
 イブン=ハルドゥーンは1332年、北アフリカのチュニスに生まれた。先祖は南アラビア出身でセビリャの支配貴族だったこともあった。波瀾万丈の政治生活を送ったが、人間の思慮深さや人間の知識は国家の興亡に寄与することができないものか。政治に関わりながらも悶々とした日々をおくることおよそ九年、ようやく政治の世界から脱出して、人間社会の解明という課題解決のための学究生活に入った。イブン=ハルドゥーンはみずからの政治の失敗が現実社会の認識不足に起因していると気づき、改めて人間社会の本質を極めるための素材として歴史を選んだ。彼は歴史は因果律的に連続する時間の流れと捉え、そこに一定の法則を見出そうとした。彼は歴史書をはじめ、法学・哲学・帝王学などさまざまな書物をひもといたが、意にかなう学問を見出すことができず、「文明の学問」と名付けた新しい学問を創設した。それは独創的な方法論による一種の社会鉄抱くというべきもので、その著「歴史序説」にまとめあげられている。この文明は人間社会のことであり、学問研究の主な目的は国家の生成発展を分析することであった。彼は当時の混迷する政治の野家中にあって、再三にわたる失敗から反省の目で国家をとらえようとした。彼は地理的環境の差異によって社会集団の結束力が違い、内在する連帯意識が歴史を動かす要因になるとする。遊牧生活を送っている連帯集団は支配権への指向をもっているが、支配権の獲得に宗教は基本的な要素でないとする。人間は社会的結合が必要だが、互いに闘争する。それを抑制するのは連帯意識に裏打ちされた王権であるが、王権は人間の闘争本能を抑制することを本務としているため、専制化して人民の能力以上に強制するので、支配者への不服従を導き王権自身も崩壊する。そこで主権者の専制化をよくせいするために、大衆が認め従うような政治的規範、いわゆる法が制定される必要がうまれる。この規範には宗教によるものも含まれる。イブン=ハルドゥーンはこのような推論を重ねて政治形態の分類を想定し、カリフ制も絶対的なものでなく、カリフ制から君主制への変遷の歴史として把握することに成功した。
 現代ではグローバリゼーションにより宗教や文化の垣根が失われて、流動化しつつある。けれどもアジアだけでとってもアジア人の連帯感情がうまれて共同体形成につながるような子可能性は薄い。地球規模では普遍的な問題を連帯感情として、宗教のようなものを生かしていく道もあるかもしれない。

 第五章「アフリカから何が見えるか」では、人類の未来に対してアフリカの役割を考える。アフリカは遠い存在であり、日本からの観光客数は65000人にとどまり、まれに見るニュースでは紛争や飢餓、エイズといった社会問題に限定される。私たちがアフリカを考える際にはまずは私たちを強力に支配している先入観を取り払わなくてはならない。ヘーゲルは黒人を野蛮な人間として、その論理がその後の植民地支配やグローバル化社会などの時代の変遷においても影響している。さらにアフリカの世界史からの排除までも言及している。これを正面から擁護する哲学者や歴史家はいないが、救済や援助の議論はヘーゲルのアフリカ認識と大同小異である。またその解釈の仕組みがどのような歴史的過程で創造され、どのような役割を担ってきたかも根源的批判的な視点から見直す必要がある。ただ一方的にアフリカをグローバル社会のやっかいものと捉える伝統的なアフリカ認識は21世紀になって大きく変化しつつある。今世紀にはいるとアフリカ経済は統計的には驚異的に回復し、資源国以外でも多くの国が高い成長率と個人所得の増大を享受するようになった。しかしそれはグローバル化する世界システムの中で一方的に資源国の役割を押し付けられたからであり、さらにこれまでの西欧諸国のアフリカ像は変わらないままで温存されている。一方でアフリカ社会が固有に編み出し運用してきた知識や制度が、現代世界や人類の未来にとっても貴重な知的資産となる、というアフリカの潜在力を未来の世界にとっての資源ととらえる味方である。それは共生や互助、切り裂かれた社会の修復、文字と理性を絶対的に信仰してきた人間感や歴史観の相対化といった領域で育んできた潜在力である。
 アフリカは成長と発展という希望のベクトルと、感染症や紛争という絶望のベクトルであり、これらは1960年代にアフリカ諸国が独立を勝ち取って希望にあふれた時代では希望にあふれていたが、1970年代から80年代にかけて軍事クーデータや地域紛争が起こり、1990年には内戦、貧困、エイズ、旱魃など多くの問題にさらされてきた。しかし21世紀に入ると世界的な資源価格の高騰を背景に原油や希少資源を算出する国だけでなく、その周辺こくでも外国からの直接投資が激増した結果、年率5%-10%という経済成長を遂げた。こうした希望と絶望の往復という近現代アフリカ社会の変動を全体的に捉えようとするときに二つの視点がある。一つは世界のマクロな政治経済機構構造に原因や方策を求める視点と、もう一つはアフリカ社会内部のダイナミズムに求める視点である。本章の立場はアフリカの困難や問題は大部からの構造的な条件によっているが、処方箋はアフリカ人自身の社会・文化的資源として蓄積され運用されている。この処方箋は現場で新たに更新され生成され続けているが、人類の共通の資産として位置付けることを提唱してみたい。21世紀初頭に次々と和平合意が締結され、アフリカ大陸のほぼ全域を覆った泥沼の内戦も一時的な収束をみた。こうした政治的安定は2002年に誕生したアフリカ全土の統合の安定をはかるアフリカ連合の成立によって成果を上げていた。21世紀にはいって起こった成長への転換を導いた直接の原因が、世界的な資源価格の高騰であったことは間違いない。原油は2002年に比べると2007年には4倍近く、金属は3倍近くの高値になった。産油国には欧米の石油メジャーをはじめ中国、インド、マレーシア、南アフリカなどから大量の資本が投下され成長を牽引した。今日、中国の全石油消費量の三割をアフリカが供給しており、アメリカもアフリカへの原油依存率を15%にまで高めている。こうした資源開発を中心としたアフリカ投資と開発援助の世界で存在感を急速に増しているのが中国だ。石油については年率30%を超える勢いで消費量を増大させている。これに対抗するように日本はアフリカに対する姿勢を転換させはじめた。日本政府は2008年の第四回アフリカ開発会議で、華々しい援助公約をうたい上げた。一方で1990年にアフリカを覆った病理や問題は基本的には何一つ解決されていない。2008年をとっても内戦や住民虐殺の悲劇は継続的に発生している。ソマリアの内戦は停戦合意がなされたが激化する傾向にある。スーダンのダルフール紛争はアラブ系牧畜民族が牧草地をもとめて南下し農耕民族の土地への侵入に起因しているが、スーダン国軍とアラブ系牧畜民の民兵組織と武力衝突を繰り返し毎年10万人以上が犠牲になるジェノサイドとして継続している。こうした政府軍と反政府軍との間の戦闘はこれ以外にもコンゴ民主共和国、コートジボワール、ソマリア、ブルンジ、西サハラで継続し、多くの難民を生み出している。大統領選挙や物価値上げの際に社会が破局的状態に突然陥ってしまうことも起こっている。2007年に行われたケニアの大統領選挙では優勢な野党候補に対して開票報告を中断し再選宣言をした現職大統領と同じキユク人の一部が虐殺されると、民族間の報復の連鎖が起こり、内乱と社会秩序崩壊の瀬戸際まで追い込まれた。アフリカの経済成長はマイナス成長から脱したとはいえ、1日1ドル以下で生活している貧困層の数は世界レベルでは10億人から6億人に減少したものの、アフリカでは横ばいをしてしている。
 次にアフリカを理解するために潜在的に使われているアフリカ・スキーマについてみていく。部族スキーマは部族という観点で出来事を見ようとする方法だが、1994年のルワンダのツチ族とフツ族の対立や、2008年のケニアの動乱もキクユ族とルオ族の対立が原因とされる。ベルギーにもフラマン人とワロン人の対立があるが、部族対立とは言わない。アフリカでは未開性や野蛮性を想起させる部族という語彙が選ばれている。一方でアフリカが固有に育んできた集団編成の知恵は部族性とは正反対の開放的で二重帰属や帰属変更も可能な柔軟な社会集団だった。このような構造は統治や徴税に適していなかったので、植民地政府は社会を人為的に階層化し部族社会化させていった。イギリスは少数のイギリス人行政官が圧倒的多数のアフリカ人を支配するために王や首長を探し出し、その伝統的政治組織を統治に使おうと試みた。しかし東アフリカのサバンナ地域では王国や首長国がほとんど出現しなかった。そのため部族境界を地理上に人為的に定め、その境界線に囲まれた人々をその部族民として固定して登録した。ルワンダでもベルギーが同様の制度を導入し、人々はフツ族、ツチ族、トゥワ族と記載された民証明書を与えられた。こうしてルワンダにおいてツチ族とフツ族が固定され分離されたのである。ツチ族vsフツ族の部族対立の図式は現在では歴史を歪曲するものとして厳しく批判されるようになった。まず批判の第一点は牧畜民=外来の支配者、農耕民=土着の被支配者という思い込みが誤りであった。今日の言語学、考古学的資料からは13-15世紀に北方からクシュ系などの非バンツー系言語を話す集団が侵入した証拠はない。現代のツチもフツもまったく同じバンツー系言語の話者である。また牧畜民と農耕民の関係は19世紀半ばまでは、基本的に平等であり、相互にサービスを交換しながら共生していたこともわかっている。彼らはともに同じ言語を話す土地の人間であり、外見上もかわりなかった。19世紀後半のルワブギリ王の統治時代になってから牧畜民と農耕民の間に緩やかな上下関係が形成されはじめた。つまりツチが上位でフツが下位という伝統的な社会構造は極根の浅い柔軟な伝統であった。批判の第二点は背が高く褐色を持つ牧畜民ツチ、背が低く色が黒い農耕民フツ、という部族のステレオタイプが語られてきたが、両者はまったく別の民族集団だという証拠は何一つない。15世紀ごろから農耕と牧畜の生業文化が進み、農民は丘陵地帯の頂上付近に住み、牧畜民は中腹から狭谷地帯を遊動した。ルワブギリ王の知性に裕福な牧畜民は王の周りに集まり王の進化となった、彼らはその時にツチという社会階層として自己形成した。一方、税や賦役を要求される農民は、フツとして緩やかに自己形成していった。19世紀末に形作られたツチとフツという集団の雛形がドイツとベルギーによって分断し固定化した。このように今日に至る民族の固定化は発明されたものである。
 第二次大戦が終わると二つの勢力が汎アフリカ主義に基づく政治・文化活動を開始した。一つはパリやロンドンに留学しアフリカ各地からやってきた同じ境遇の若者と交流したエリート層の海外留学組で、もう一つは大戦で白人に伍して戦い合理的思考と組織化の方法を身につけ、除隊に際して多額の資金と様々な特権を与えられミドルクラスを形成した復員軍人組である。イギリスの支配下においては近代市民社会の規範とルールをもつ社会と伝統的な部族社会を完全に分離することで政治運動を封じ込めようとした。ケニアの場合には部族を単位とした政治結社が形成され、お互いが半目しあい、独立に向けた交渉を有利に進めようとするイギリスを利することになった。しかし海外留学組や復員軍人組はナショナリズムを旗印にし、部族境界を超えた国民政党の組織化に全力を注いた。そしてケニア・アフリカ人民主連合(KADU)と、ケニア・アフリカ人民族連合(KANU)という二つの国民政党が独立前の総選挙を戦い、KANUが議席の多数を占めた。このKANUはケニアの二大民族集団出身者によって運営されており、最大民族集団のキユクと当時の二番目に大きな民族集団だったルオであり、大統領にはキユク人、副大統領にはルオ人が就任し、権力を分有した。しかし、二人が親米と親ソ連という二つの政治路線をめぐって争いはじめると、それぞれが支持基盤とするキクユとルオという二つの民族集団の排他的帰属意識と忠誠心を活用して大衆を動員した。その結果、両集団間には激しい敵意と憎悪の感情が醸成されていった。新興政治エリートたちは、自らの政治的資源として、イデオロギーや思想などではなく、植民地政府が発明し定着させた排他的服従的で自然な感情を喚起させる部族こそが、有効で強力なものだということを確認したのである。こうした傾向は以後の現代ケニアの政治しーんのなかにおいて持続的に拡張していった。
 部族スキーマの中にある未開性・野蛮性のイメージの形成過程について考えていく。2001年8月南アフリカで開催された反人種主義・差別撤廃世界会議では奴隷貿易は人道に対する罪であるという共同宣言まで漕ぎ着いた。これは現代の世界システムの中心に位置するこうした国家群が組織的制度的にアフリカを貶めてきた歴史がようやく被害者であるアフリカと向き合う形で正面から語られるようになった。18世紀に西ヨーロッパに成立した近代市民社会はアフリカをさげずむものであった。しかし蔑視の歴史は古代まで遡るわけではなく、とくに10世紀から14世紀のアフリカは他地域と比べても経済的繁栄を謳歌し政治的安定を誇った文明の中心地の一つであった。なかでもとくに大規模なものが14世紀に栄華をきわめたマリ王国であった。もともとは現在のギニア共和国北部の金鉱山ワンガラからさんしゅつされる金の交易に従事していたマンデ系民族が、ニジェール川最上流のニアニ付近に興した小国であった。この時代に西アフリカにもたらされたイスラームの教えを受容した支配者はサハラ砂漠を縦断する長距離交易に乗り出すことによってマリの版図を一挙に拡大していった。マリ王国は社会制度の整備にも力を注ぎ、モスクを建設させ、大学を開学した。人民統治は文官による行政制度によって行い、王による口頭の命令を筆記し法文化させる秘書と役人も用意していた。ヨーロッパやイスラーム世界からの旅人はこぞってアフリカ文明を賞賛した。この豊かなアフリカ社会は16世紀に突如終わりを告げる。最大の原因は15−16世紀から初めったヨーロッパの世界制覇の運動であり、それに続く17-19世紀に起こった市民釈迦の誕生である。この16世紀から19世紀後半にいたるまで、アフリカ大陸の西海岸、南海岸、東海岸から南北アメリカ大陸、ヨーロッパ、中東地域へとアフリカ人は奴隷として売買され送り込まれていった。中でもヨーロッパの船でアフリカ人の奴隷をアメリカ大陸へと運ぶ航路は人類史上最悪最大の人身売買ルートであった。市民社会の発展とアフリカの同隷化は同じ世界史の歩みの表裏を構成していた。アフリカから新大陸へどれだけの数のアフリカ人が奴隷として連れ出されたのかについては、正確な数は不明であるが、ある研究者はすくなく見積もって16世紀に90万人、17世紀に275万人、18世紀に700万人、そして19世紀に400万人と総計1500万人と推定している。しかし、これは輸出された商品としての奴隷のかずであり、実際には奴隷狩りの侵略や戦争での死亡者や、港で積み出されるまでの道のりで死亡した数や、奴隷船の中で死亡したものが膨大にそんざいしている。別の研究者によるとアメリカにたどり着いた奴隷一人について、五人の人間がアフリカや海上で死亡しているはずだと推定している。そうすると新大陸向けの奴隷貿易だけで、アフリカかた7000万ー8000万人にものぼる労働適齢期の人間を奪ったことになる。これは三角貿易とよばれるサイクルにしたがい、ヨーロッパ、特にイギリスから鉄砲、アルコール、綿布などの廉価な製造品を満載した船が西アフリカ沿岸で、船荷を奴隷と交換する。奴隷を積んだ船は新大陸へと渡り、そこで奴隷を下ろして砂糖、綿花、タバコなどの換金作物を買い込んで、西ヨーロッパの母港へ向かう。このサイクルは1年半から二年に及んだ。西アフリカから新大陸まではほぼ40日から70日の航海だったが、悪天候がつづけば100日を超えることもあった。奴隷たちは頭を剃られた上で足首に鎖をつけられ、所有者の焼印が身体にやきつけられた。全裸のままで船倉にぎっしりと詰め込まれた奴隷の多くは、病気に罹ったが、生きたままで海中に投げ捨てられることも珍しくはなかった。新大陸に積み出された奴隷たちは大規模な砂糖キビプランテーションで過酷な労働に従事させられた。そこで作られた砂糖はヨーロッパでぼうっこうしつつあった市民や資本家、知識人がコーヒーや紅茶と共に消費された。こうして市民階級が釈迦の実権を握るとその需要は跳ね上がり、その需要を満たすために新大陸からは大量の砂糖が送り出され、そしてその生産のために、ますます多くのアフリカ人奴隷が必要とされた。三角貿易によってヨーロッパは莫大な富を手にし、世界システムの支配者としての座につくことになった。こうした富と力を背景にして、政治、経済のみならず文化、学術の分野においても、ヨーロッパは急激な社会革新を推し進めていった。市民革命や産業革命を党して、現代世界の雛形となる社会が西ヨーロッパに出現した。この近代市民社会の理念は自由であり平等であり友愛であった。この理念と奴隷貿易が両立した理由としてはアフリカ人は自分達と同じ人間でないという考えである。この考えについて大量で多様な言説が、哲学や思想そして生物学の名によって生み出された。
 アフリカには外部社会との折衝交渉衝突のなかで、自前で育ててきた問題対処の知恵や実践がある。一つは開放手で柔軟な帰属意識を許容する集団編成である。ケニアにはアバメニャ・システムという数人・数家族単位で自由に移動していく人々で、ある土地に滞在し、土地の一族のやっかいになる。一団を休養させ、その先々の情報を仕入れた後、すぐに立ち去るものもいるし、数年間居候を決め込んだり、土地のクランの娘と結婚し、新たな一族の始祖になるものもいた。そこには異人排除の閉鎖性や暴力性はなく新参者はたいてい土地の言葉を身につけ、土地の習慣を取り入れていく。これが日常的に繰り返されていけば、二つの民族間で全面的な対立などおこりようがない。なぜなら二つの民族のなかには同じ一族、血のつながった親族がくらしており、彼らを殺傷することは文化的に許されない行為になるからだ。ケニア社会にもこの編成原理を今日なお実践している集団がある。たとえば北ケニアの乾燥地帯の牧畜民アリアールである。クシュ系の言語を話すラクダ牧畜民であるレンディーレと、ナイロート系の言語を話すウシ牧畜民のサンブルという民族集団に挟まれて暮らしている極少マイノリティ手段である。アリアールの人々はまったく言語系統が違う二つの言葉を不自由なく話す。また北ケニアの牧畜民社会は民族の境界を超えて、血縁関係を擬したクラン同盟を結び、異なる民族内に一族を作り上げる。このような柔軟で複数性・解放性を備えた集団編成の原理は、異なる文化や価値観をもった複数の民族集団が矯正して、一つの社会の中に緩やかな連帯を作り上げる上で、きわめて有効である。もう一つの潜在力は代替的紛争解決策である。アフリカ社会が経験してきた独裁政権による拷問や殺人、内戦内乱によるレイプや大量殺戮といった重大な人権侵害はどのようにして人権を回復できるのだろうか。現在世界各地で採用される方法は二つあり、一つは国際法定であり、一つは公衆の前で真実をあきらかにして被害者と加害者を和解させるという方法である。前者についてはルワンダ虐殺の戦犯法廷などである。後者の和解の方法は南アフリカなどで見られた真実和解委員会で、国家暴力によって、著しい人権侵害を受けた被害者たちが公衆の面前で被害と加害の事実を明らかにし、加害者を許しを国民和解を目指すという方法である。アパルトヘイト体制への講義や抵抗を表明する人間に対して、国家権力をあげて徹底的な迫害と暴力行為を続けた。こうした圧迫に対してテロなどの物理的な対抗手段もとられ、国家暴力を起点とする相互暴力の無限循環サイクルで憎悪と復讐によるカオスを生み出した。この社会でどのように新たな南アフリカ国家を形成していくかという難題に対して、ネルソン・マンデラ大統領が出した回答が和解と許しを土台にした国家創造であり、そのための真実和解委員会の設置であった。法廷において重要なのは事実を証明する物的証拠であり、被害者の主観的な思いや感情の発露は重視されないどころか、むしろ逆に排斥されることが普通だ。ところが南アフリカのTRCにおいてはアフリカ社会が伝統的に採用してきた、語の力を徹底的に重視するスタイルに依拠した。
 たしかに、かつての奴隷貿易と植民地支配と、今日の開発炎上は、方向がまったく異なっている。しかし皮肉なことに、両者は、古典的なアフリカ・スキーマを共有している点で、同じ立場にたっていた。19世紀末に西ケニアに派遣されたイギリス人の行政官の日記や私信をみると、遅れた原住民の生活をいかにして文明化するのかという熱い情熱があふれているこおとに驚愕する。それは今日の援助ボランティアがなんとか現地の暮らしをかいぜんしたいと献身する心情と酷似している。アフリカをつねに客体としてのみとらえ、その主体としての影響力を想像することができないのだ。アフリカ社会が育んできたさまざまな社会・文化・自然に関わる潜在的可能性を見ようとはしないし、ましてや、そこから学ぼうという姿勢など見出せるはずもないのである。21世紀のアフリカはこれからの人類の未来にとってオルタナティブな枠組みを提案することが可能であるがゆえに大きな意味をもつのである。

 第六章「中近世移行期の中華世界と日本ー世界史の中の日本」では日本史の中世から近世への移行期を世界史の中で捉える。日本の中世は鎌倉時代と室町時代、近世は江戸時代、明治以降は近代というのが常識だ。鎌倉時代の成立にさいして源平の内乱があった。おもに公家と百姓から成っていた社会に武士階層があらたに登場する。室町時代に先立っては南北朝の内乱があり、商工業の世界が拡大した。ついで戦国時代をへて織田信長・豊臣秀吉による天下統一、やがて江戸時代を迎えるが、これには大名同士の領域を巡る戦いと、一向宗やキリシタンなどの信仰に結ばれた百姓の組織を大名が連合して制圧した戦いがある。一向一揆や島原の乱などがそうした事例である。対立する双方が日本列島の住人であったこうした動乱に対して、鎌倉末期の蒙古の襲来や、戦国時代のヨーロッパ人(キリスト教宣教師)の渡来は外敵の侵入という珍しくも厳しい経験であった。ともかく内外の危機を顧みると、中世から近世への長い移行期は激動の時代であった。中世が自力救済社会とよばれるのは自力で自己の権利を保全する動きが強かったが、近世は法の力が天皇・将軍から百姓・町人にいたるまで浸透していた。中世が十二世紀から始まるとすると、近世への移行期は500年におよぶことになる。室町から中世の解体過程に入るとすると移行の時間は300年前後となる。
 自然的には大陸にまといつくように列島が連なっている。列島とこれに相対する対岸とからなる地域はあきらかに一つの世界を構成して、古代から海を通して交流を深めてきた。東アジア世界のうち中国文面の先進性、高度な内容は圧倒的であり、政治制度において律令制を生み出している。中国から律令制を受け入れ国家形成をおこなったのは朝鮮・日本・ベトナムなどである。日本の古い歴史は中国の史書に記されている。日本の政治が規範とする古典はほとんど中国のものである。徳川幕府が天皇・公家等のなすべきことを定めた禁中ならびに公家諸法度には、「貞観政要」「群書治要」の二書が入っている。前者は唐の太宗が侍臣とかわした政治論議をあつめたもの。後者は唐代に多くの書物から政治にとって重要な語句を抜き書きしたもの、だが中国皇帝の必読書とされ、日本でも天皇・公家が政治にたずさわるさいに教養の基礎とされてきた文献である。近くは我々のもちいる元号「平成」は中国古典の史記や書経から選んだものである。元号が中国古典から選ばれることにきまっていて、明治・大正は易経、昭和は書経から選ばれている。ここに見られる関係はヨーロッパ諸国民とギリシア・ローマの古典との関係に似ている。古典を共有するとはどういうことであろうか。人々が事にあたって行動し思索するさいにある種共通のパターンを描き出すのではないだろうか。そこで互いに相手に対する理解も深まり、協力・共同の意識が強まるのではないだろうか。鎌倉時代の貴族の歴史意識をかんたんにふりかえってみよう。愚管抄は日本の歴史を三つに時期区分し、道理の展開が歴史を動かす原動力になったことを説いた史書である。最高の教養人であった慈円は書の冒頭に漢家年代をおいた。日本の年代に先立ち中華文明の年代が最初に置かれたのである。盤古、三皇、五帝、三王が歴史の冒頭に挙げられた。愚管抄はこうした記述の後に神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭以下日本歴代天皇の名をあげている。
 日本列島の住民は古くから誇り高かった。後漢書によると奴隷と考えられている生口を中国に朝貢していた。宋史によると「太陽の現れる場所という縁起の良い日本を好んで国号に用いる」とある。宋書には倭五王が入貢したとあるが、五人はそれぞれ安東将軍倭国王などの称号を与えられた。一方で埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣銘にはワカタケル大王の天下を治めるのを助けたと示されていて、日本においては5世紀に中国皇帝の支配下にある天下と並んで雄略天皇の支配する列島内の天下が存在したことがわかる。
 先近代の中国で外交を担当したのは礼部である。例をもとに諸国、諸民族との付き合い方をきめていたが、その基本になっていたのが華夷思想である。中国大陸の中央部の中原は土壌が豊かで生産力が高く、文明の程度も高かった。文明が高い華に対して、文明の程度が低く、人間らしい礼節を知らぬ連中を夷とした。中華は東夷・西戎・北狄・南蛮という四夷に囲まれた華という中国人の自信と誇りを表明する言葉になった。礼の反対語は刑で例が実行されない場合には刑が発動される。礼については広辞苑では「社会の秩序を保つための生活規範の総称」としている。遣明船は政治的には形の上で朝貢・賞賜の関係を結ぶことのほか、経済面では諸国の進貢物とそれに対する反対給付として頒賜物をあたえる一種の貿易関係を作り出していた。朝貢携帯をとらない交易関係は志望液として厳重に禁止されていたが、実態は全乗組員のうち私的な従商が多くをしめていた。進貢物に対するお返しは実際には進貢物に対する代償の意味をもったので、交易そのものであった。
 日明通交が商業に重点化され拡大したとすると、そのルートが恒久的に保証されねばならない。幕府や有力大名などはみずからの公的・私的な武力を動員してこの国際幹線交通路の保持にあたった。島津家の文章では遣明船を警固した内容もある。二本の中には琉球を征服しようとしたり、倭寇となって海賊行為をする勢力もあったが、幕府は遣唐船の安全を図るべく大名に指示をしていた。明帝国は通交を求めてやってきた朝貢船の積載したすべての商品を品ごとに値段を決めて強制的に買い上げた。このスタイルは豊臣秀吉にも引き継がれ、片瀬沖に着岸したポルトガル船に対して、島津義弘に指示して徳川幕府の鎖国下で行われていた糸割符の取引法とまったく同じように処理させた。鎖国の語はケンベルの文章を19世紀初頭、長崎通詞を努めた志筑忠雄が翻訳し、作り出したものである。近年では「4つの口」論というものもあって、近世においては長崎・対馬・松前・薩摩の四港がそれぞれオランダ・挑戦・蝦夷・琉球に対応していたことが明らかになっている。そして、これらのことから敷衍して「鎖国」は存在せず、幕府による貿易独占と人民の海外進出を禁じた海禁政策があったとみるべきだという、どちらかといえば経済政策に重心の置かれた議論がある。17世紀初頭の女真族蜂起を景気に起きた東アジアの大動乱を見て幕府学問所頭取の林春勝は華と夷が入れ替わったとして華夷変態と題した。これは脱亜入欧に余計なバイアスを加え、その後の道を誤らせる結果をもたらしたと思われる。また「鎖国」という詞には現状に対する批判が込められており、「開国」という未来への路線がかくされている。その点で、徳川幕府の「鎖国」体制の成立とそれが近代に及ぼしたものについては、さらに政治的・思想的・文化的な側面から考察を深める必要がある。

 第七章「繁栄と衰退の歴史に学ぶーこれからの世界と日本」では座談会で、、する。9.11の話からイスラームやそのヨーロッパへの影響の話にある。EUは文化や歴史のベースがあって統合しやすいが、東アジアは中国という巨象が一頭いて、周辺に小国がある状態でヨーロッパとは違う。東アジアは歴史的わだかまりもあるが、ヨーロッパもずっと戦争してきている。違いは民族は混ざり合っていて他国との政略結婚も多い。日中においてEUのようあ共同体の幻想は持たないほうが良い。高度成長によって東京も変わった。かつては奥多摩や秩父の山奥にも農業が行われて侵攻があり、地域感を結ぶ道のネットワークもあって社会が存続していた。こういう山村の社会や文化は全国にあったが、日本のバランスが崩れてなくなった。東京一極集中が強まり、地方では赤字ローカル線が次々に配線が追い込まれることになった。戦後の人口は3500万人だったが、現在では1億2600万人に増えた。経済も大切だが、国を上げて文化を育てるようにしていく必要がある。日本は特に都鄙の格差が広がっている。都心でも相続のために農地を売ってそこが宅地になるケースがあるが、田園は絵画的な美しさだけでなく、人間社会と有機的な関係をもっていることにも価値がある。河や水田も大気を水分で潤す役割がある。水田で蓄えられている水がなくなれば洪水が多発する。しかし経済的な価値に還元されないと今の世の中は動かない。
 今までは技術力の高低差で繁栄したり、資源型の繁栄もあるが、これからは穏やかな繁栄があるのではないか。その中でもモノづくりも大切なのではないか。食文化ももう少し地域文化に結びついた形で魅力的にアピールできるのではないか。日本や他の国でも独特の匂いや生活音がしていた。これらも文化なのではないか。日本人は庶民も生活を楽しむことができた。日本には閉塞感の中にもポテンシャルを感じるが政治が重要。国境問題、民族問題、宗教問題が出てきた場合に政治が来るが、今のところ大きな問題には直面しておらず政治が機能しなくてもやってこられた。これからの日本に期待したい。

気になった点

 人口のところでは日本の人口減について関連して読んだ。栄養長体とストレス軽減が出産数に影響するのであれば、日本はこれができていないということか。文化的な要因もあるとは思うが。

 二つの海域世界の中で「陸地に取り込まれた海域を成立場とする海域世界」は世界の多くの海域世界のタイプだったとする。これに中心にした研究について知りたい!日本海もこれであろう。

 海面が低かったときの海流も同じだったのかはちょっと知りたい。

 p.192キリスト教の虐殺の歴史は知らなかった。あとイスラーム世界では大型船を作るための木材が得られなかったというのは興味深い。

 聖武天皇の徳をもって国を治める、というのはよく考えれば当たり前のことだが、資本家に乗っ取られてしまっている現在の国と比べると何であろうと思ってしまう。王権と資本家というのは永遠のテーマである気がするが、昔はどうしていたのか。藤原氏とかも結局、資本家だったのかな。日本における資本家と政治の関わりももう少しその辺りを勉強したい。

 アフリカについては初めは正直興味があまり薄くてつまらないなぁとも思っていたが、読み進めていくうちに「これこそ全人類が読まなくてはいけない論考だ」という風に代わり、目から鱗が大量に流れ出した。

 日本の近世の議論の中では鎖国はなかったのではないか、という話まで出てきて興味深かった。

最後に

 最後の興亡の世界史を読み終わった。軽い意見のようなものの集合体だと思っていたら、濃厚な論考がたくさんあり読み応えがあった。これ単体でもぜひ手にとって頂きたい書籍である。アフリカなどについて知りたい方にはおすすめします。

モンゴル帝国と長いその後 (興亡の世界史 09)

興亡の世界史がやっと最後の一冊。杉山氏の本はこないだ一つ読んだが、こちらを読めばさらに中央アジア視点からの歴史への理解が深まると手に取った。

本の構成

 序章「なんのために歴史はあるのか」ではまずモンゴル帝国から繋がっている現在を振り返る。モンゴル帝国が完全に消滅したのは1920年であった。ブハラ・ハン国とヒヴァ・ハン国がソヴィエト連邦に統合された。また1920年ごろの第一次大戦の前後ではユーラシアの帝国が相次いで消滅した。1920年の少し前にロマノフ王朝のロシア帝国が戦局の激化により国内産業力が過重な負担を支えきれず崩れ去った。またイスラム世界の盟主のオスマン帝国が解体しムスリムたちに影響を及ぼした。東に目を移すと第一次大戦の少し前には辛亥の年の革命によって大清帝国が崩壊した。また第一次大戦の結果としてヨーロッパではドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国が消滅した。これら20世紀のはじめに一斉に消え去った諸帝国は実はいずれもモンゴル帝国とその時代になんらかの起源・由来をもっていて、モンゴル以後の帝国史は決算されたと解説する。
 モンゴル帝国とその時代はそれ以前のユーラシアの歴史や営みの多くを総括するものであり、人類は陸海を通じた本格的な大交流によって大きく別の段階へ踏み出す。しかし欧米中心に語られてきた世界史像では15世紀末以後の西欧の海洋進出からでしかまとまった像としての世界史は語られない。それは歴史だけではなく学問・知識の体系がヨーロッパことに西欧の枠組みであり、それに依拠しているのが理由である。しかしモンゴルが世界と時代の中心にいた13・14世紀が世界市場の重要な画期とみなす考え方が、内外で広まりつつある。大航海時代の二世紀前に人類史上の重大なステップとしのモンゴル時代があると日本が首唱したのが始まりである。
 モンゴルの発展はに段階に分かれている。一段階目は創始者チンギス・カンによるユーラシアの多くをまとめて大モンゴル国を作る過程である。二段階目はクビライ移行の大元ウルスが陸海を通じたシステムを推し進めた過程である。モンゴル帝国では第二代皇帝のオゴデイのときからカアンと名乗り、帝国を構成する他のウルスにおいてはその当主はカンとのみ称した。中華地域においては北宋や南宋などと比較にならない大地平が出現した。中東ではモンゴルによるアッバース朝の消滅と、モンゴルのフレグ・ウルスが統括する広義のイランをはじめ、現在のアゼルバイジャン、アフガニスタン、トゥルクメニスタン方面、及びそれ以東の地は、ペルシア語文化を主体とする東方イスラーム圏となり、モンゴルと対峙したマルムーク朝がおさえるエジプト以西がアラビア語文化の西方イスラーム圏となる形勢がさだまった。いずれも現在に直接つながる現象である。モンゴル以前には安定して統合されることがなかった西北ユーラシア、すなわち現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、ウズベキスタンなどの大地域においては、ジョチ・ウルスという名のモンゴル権力のもとに秩序づけられ、モンゴル帝国全体がつくりだすユーラシア規模の交通システム・流通経済に組み込まれたこのモンゴル時代のボーダレスな東西世界では陸海の交通ルートは公権力で維持・補償されており、人と物が空前のしつりょうでゆきかい、文化・宗教・思想・知識・情報・学術・科学・技術・芸術などが大展開した。
 モンゴル帝国とその時代の研究は、東西の多言語原典文献と、多様な遺跡・遺物という大きく異種の根本データに基づく。文献資料もペルシア語・漢語の二大資料群を中心に、二十数カ国語にわたり、一通り閲覧・把握することさえ困難である。未発見・未処理の場合の方が多い。近年かつてとは違う水準と広がりで研究が急展開している。それが可能となったのは、政治・国境・資料の壁がとりはずされたここ二十年あまりのことである。中国の解放政策、ソ連の崩壊、東欧の民主化などアフロ・ユーラシアの国々にみられた引き締めの緩和や、グローバル化が調査・研究に与えるプラス面である。モンゴル帝国については、昔から中華文明人やムスリム知識人たちは悪口がふつうだった。それは、みずからを「文明」とし、他者を「野蛮」とする定型パターンに加え、自分達はモンゴルの被害者であったといいたい気分がそうさせがちであった。事実においては、中華文化はモンゴル時代においてもっとも輝いた。モンゴルへの負のイメージを創作し、煽り立てたのは、近代のヨーロッパであった。かつてヨーロッパを恐怖に陥れたモンゴルこそは遅れた征服されるべきアジアの代名詞として、歴史と時代を超える格好の標的となった。モンゴル帝国を筆頭とする過去の歴史への負のイメージは欧米による価値づけを前提とする史家に引き継がれ、アジア人史家でさえもそれは顕著である。
 歴史とは何か?歴史研究とは何のためにあるのか?かつてであれば一生涯かけても手に入れることのできなかった情報・知識が、しばしば一瞬のうちに眼前にそろうこともありうる。思想家・歴史家たることはそれをもって職業とする人たちだけの在り方ではなくなり、万人に開かれた領域と化した。紛争・対立を乗り越える地平と思考が求められる。対立を作るのは、宗教という組織であり団体だ。私たちは、どういう道のりをたどって今こうしてあるのか。人類に共有される歴史像・世界史像を是非とも作りたい。

 第一章「滔々たるユーラシア国家の伝統」では、アジアはアッシリア語の「日いずるところ」のアスを起源としており、ヨーロッパは同じくアッシリア語の「日没するところ」のエレブを起源とした女神の名前を起源としている。牛に変身したゼウスが女神エウローパーを略奪してその背に乗せて海を西へ渡ったという神話が元になっている。アッシリアは現在の国名で言えばイラクだが前八世紀半ごろから軍事国家として強大化し、最盛期には現在の中東中央域のほぼ全域を征服・支配した。しばしば、人類史上で最初の帝国であったという言い方がされる。その軍事システム、他民族支配、官僚機構は周辺諸地域や後世に影響を与えている。この言葉はギリシアに伝わったがギリシア人の感覚ではボスポラスとダーダルネスの二つの海峡を境として北側をヨーロッパ、南側の東方がアジア、南側の西方がリピュアと呼ばれた。ヨーロッパは寒冷で荒涼として無骨なイメージで、アジアは温暖で猥雑として豊穣のイメージであった。これが逆転するのは近代になってからである。アジア人としてアジアを感じる人はなく実態がない概念なのに対して、ヨーロッパは実態を作ろうとしている。日本にも中国史研究を元にしたアジア史を唱えた研究者宮崎市定もいた。
 アジア・ヨーロッパの概念とは別にユーラシアという言葉も帝国列強の時代に湧き上がってきた。ドイツをはじめとする列強たちが地続きに争っているのがユーラシアという地政学上の戦略であった。一方で西に向いてヨーロッパ、東に向いてアジアというロシアにとってはユーラシアは基本スタンスであった。アジア史やユーラシア史として歴史と捉えるのは比較的新しくここ100年くらいのことである。西洋史や日本史などはその中で完結していたが、冷戦構造の崩壊でユーラシアの感覚が必要になり中国史研究家は中央アジアや東南アジアにも盛んに赴き、西洋史家もアジア各地に赴くようになった。ひるがえってアジアやユーラシアを一括して考えなくてはならないのがモンゴル帝国とその時代である。
 ユーラシアは地形が大きなユニットとして存在しており、沿岸部を除くと乾燥が優越している。そしてこの乾燥空間が東西にわたって帯状に伸びており、東は中華人民共和国の北域から西はハンガリー平原まで草原もしくはなだらかな山野で伸びている。この陸上の帯が遊牧民たちの天地であり、農耕などのとどまるものに対して、遊牧・交易などのつなぐものとして面として広がりをもって活躍した。遊牧の典型的な形としては夏は家族単位で広い平原や山麓に散開して牧養し、冬は数家族から数十家族で寒気や雪害をしのげる渓谷もしくは山の南側で集団越冬する。こうした日常生活の中で騎馬の技術や集団としての組織性・機動性などの特質をやしなっていく。特に集団越冬の際は氏族や部族といった帰属を形成する。組織も機動性があり、連合しやすく大きな勢力が出現するが、連合は壊れやすい。遊牧民は放浪・さすらいではなく厳しいほどシステマチックでダイナミックなものであり、独特の価値観・行動様式を人類にもたらした。遊牧は農耕で定住できない乾燥した大地を有効活用し生活できるようにした。遊牧騎馬戦士は生まれながらに軍人であり騎射と高速に展開したが、それが複数の部族集団を束ねて大型の軍事連合体を作ると近代以前の世界にあっては大きな戦闘力となった。軍事を柱に政治・統治・通商・交通を握り、定住農耕民も包含した多民族・多文化・他地域の国家を形成した。遊牧と遊牧民が人類史のうえで果たした役割は長い間、正当に評価されてこなかった。近年は国境の壁が低くなり相互の情報の質量や理解は格段に向上し、流布されてきた野蛮・未開という負のイメージは修正されつつある。
 ユーラシア史を広く見ると遊牧民は多くの国家を生み出した。古くは前六世紀ギリシア語でスキタイとよばれる遊牧複合連合体が出現する。ハカーマニッシュ帝国のダーラヤワウ大王はスキタイに進軍したが惨敗した。ちなみにハカーマニッシュ帝国や先行するメディア王国もその中核部は遊牧民の影が色濃い。これ以後のパルティアとサーサーンの両帝国も中核は遊牧民の軍事連合体であった。またアラブという語もかなりの可能性で遊牧民を意味する。現在確認できる最初の遊牧国家のスキタイはその領域は歴史研究家を悩ませている。スキタイにつぐ遊牧国家は前200年前後の匈奴でありスキタイから影響を受けていたとされる。匈奴については完全同時代の司馬遷の史記に克明な叙述がある。匈奴国家は民族国家ではなく、遊牧部族連合体をもとにさまざまな遊牧系の諸集団をとりこみ強力な軍事権力体であり、さらにオアシス民・農耕民などの定住地域も広く包み込んだ大型の複合国家であった。東はおそらく韓半島におよび西は天山地方に達した。それ以降はユーラシアの東西で遊牧国家や遊牧政権が多く興亡する。また遊牧国家は遊牧世界だけで勃興したわけでなく、中華帝国の典型のような隋や唐においても、その由来からは鮮卑拓跋の血と体質をうけついでいた。インドにおいてもダーラヤワウ大王の碑刻にあらわれるサカ族はスキタイの東方展開したものたちがインドへ到達する。クシャーンの南下と北西インドの支配がある。大きな流れとしてはテュルク族を主とするイスラーム軍事権力のインド支配である。ガズナ朝、ゴール朝、また1206年以降、デリーを首都とする五つの遊牧民系の政権が連続する。最後に故土を追われたティムール帝国最後の君主バーブルが、インドへ入って第二次ティムール朝たるムガル帝国を開く。西北ユーラシアでもイラン系のサルマタイは東からやってきたフンに押し出されてヨーロッパに向かった。大移動のあと、アヴァール、ブルガール、マジャールがあいつぎ、さらに突厥・西突厥の力が及んだ。さて13世紀のモンゴルによるユーラシア大統合ののちは、モンゴル世界帝国で統合・整備された国家システムが、ユーラシアに共通する見えないスタンダードとなる。それは、すでに述べたロシア帝国、オスマン帝国、サファヴィー帝国、ティムール帝国、ムガル帝国、明帝国、ダイチン・グルン帝国に直接・間接に引き継がれる。いずれも多種族複合国家というほかはないものであった。

 第二章「モンゴルは世界と世界史をどう見たか」では人類史上最初の世界史である「集史」の説明から始まる。1300年フレグ・ウルス(イル・ハン国)の第七代ガザンが命じて国家編集されたモンゴル帝国の正史である。モンゴル諸部族に保持されていた伝承・旧辞・系譜など口承で語り継がれていたものも含めて各文明圏から承知された多言語の学者・知識人を駆使して編纂された。ガザン他界の際は未完成だったが、あとを継いだ弟はモンゴルと関わった国々の世界各地の諸種族史を追加を命じ、1310年ごろに総合史として完成した。筆者はその中で「テュルク・モンゴル諸部族志」が今まで軽視されてきたとし、それを読み解いていく。まずテュルクというエジプトから南中国まで広い範囲に分布している人々の中にモンゴルが位置するとし、ノアから続くオズクを始祖とする。オズク族は実態があり漢文史料では鉄勒に属した袁紇が所見といわれる。オズクカガンは左右両翼に合わせて24の軍事集団をおいたことが書かれており、これは匈奴などにある二十四長を思わせ影響しているとみる。そしてこの左右両翼の体制はモンゴル帝国の創始者チンギス・カンが最初につくった国家の形である。おずくによる開国神話はウイグル、カルルク、カンクリ、キプチャクなどや他の諸勢力の歴史の記録であり、オズク族を中核とするセルジュク朝が西アジアで世界にしばらく覇を唱えた。集史の始まりはテュルク系のオズク族の伝説の世界征服をモンゴル系のチンギスが現実に再現してモンゴルの時代になったという建付けである。
 筆者はモンゴル時代に東西に出現した2つの世界地図と解読を元に研究をすすめている。混一図とカタルーニャ地図である。混一図のモンゴルは1313~18年ごろのもの、カタルーニャ地図も同時期の1313~14年のデータであり、同時期の情報という結果になった。混一図は民間に流布した中華本位の地図であるが海に囲まれたアフリカが描かれているなど西欧が世界を発見する前に東では世界が正しく認識されていたことを示している。ただヨーロッパはカタルーニャ地図以降に後退していきコロンブスまでの120年あまり停滞する。一方の当方も混一図以降は組織化された海への展望をうしなっていく。陸上交通もモンゴル解体で失われソ連解体後に蘇ったと言ってもよく、東西の海上交通も16世紀以降のポルトガルによる東方進出でやっと蘇る。作者曰く西洋人がいう大航海時代というのは人種差別を生み出した罪深いものである。さらにイギリス帝国論者が好む大航海時代以降の”海進”には陸上への視覚と知見が大きく欠落しており、ロシア帝国の形成とによる長期に渡る”陸進”は世界市場の大現象である。海の論理だけで語られる世界史は珍妙である。

 第三章「大モンゴルとジャハーン・グシャー」では、、12世紀末ごろテムジンというものが頭角をあらわす。時代は戦国乱世、下剋上はめずらしくはなかった。テムジンは制覇の途上にあった主筋のケレイト部長を倒して、高原東部の派遣を得た。そして高原西部のアルタイ山方面の覇権を握るナイマン連合体の首長を打倒して高原を手中にした。ここで注意したいのは両者とも連合王国であった。1206年に高原の政治統合を実現したテムジンはチンギスカンと名のり、テュルク・モンゴル系の遊牧民連合体を自分の出身した部族集団の名前をとって大モンゴル国と名づけた。ここに様々な由来を持つ牧民たちは大モンゴルたる一つのウルスに属する一員として認識した。2006 年はモンゴル国家の出現から 800年の年であった。ドイツはその前年より盛大な展示会と国家シンポジウムが政府の特別な資金援助で行われ、モンゴル帝国絡みの様々な異物・文献・文書・美術品が勢ぞろいし、日本からも蒙古襲来を記した国書が出品された。モンゴルでは大モンゴル建国800周年として国中を挙げて慶祝し、賑わった。かたや、ゴビの南、内モンゴル自治区でも、それなりのセレモニーは行われた。モンゴルにかかわる人々は、新疆省・東北三・甘粛省・四川省・雲南省などにも広がっている。中華人民共和国という枠組みと現状にあっては、チンギスは中華のなかの民族英雄というスタンスははずれない。ロシア連邦内にもプリヤート共和国はもとより、トゥーヴァ、ハカシヤ、アルタイ、タタールスタン、パシュコルトスタン、カルムイキヤといった各共和国があり、直接・間接にモンゴルにかかわっていた。ソ連時代はチンギス生誕800年を祝う動きがあったが叩き潰された。
 チンギスカンというのはどのような人物だったのか。台湾の故宮博物院には中国歴代帝后像という画集があるが、そのなかにチンギスカンの肖像画が含まれる。チンギスカンの肖像はほぼこれ一枚しかないが、クビライの肖像と似ているので筆者は想像画とする。また風姿を伝える記録も少なく、東西に2つの記事が目につく程度である。一つは南宋の見聞記の伝聞であり、大柄でひたいは広く長々とひげが垂れている勇壮な人物であるとする。もう一つはゴール朝に仕えていた人が65歳でなみはずれて長身で体は頑健、猫のような目を持つとある。またケレイトのオン・カンを倒してのし上がるまでの彼の前半生もはっきりとしない。モンゴル秘史で語られていることもどれほど事実であったか定かではない。大モンゴル・ウルスは周辺国から脅威の目で見つめられ各国はの防衛ラインは最高度の警戒態勢にはいった。そしてその指導者チンギス・カンは注目の的であり記録され始める。チンギス・カンは東西への征戦を重ねて1227年に西夏攻略のさなか他界した。生年について各説あるものの軍旅の中で過ごす1206年から1227年までの21年間がチンギス・カンについて確度をもって知りうる範囲である。
 次にモンゴル軍の強さについて分析していく。基本的には馬と弓矢の軍団にすぎず破壊力などはたかがしれちえる。未曾有の強大な暴力集団であるようにいうのは間違っている。東西の記録で共通しているのは、淳朴にして勇敢、命令・規律によく従ったということである。これは中央アジア・イスラーム地域・ロシア・ヨーロッパにおいても武将感の不和・嫉妬はごくありふれていたことで、内輪もめは状態化しており、洗浄での離脱・脱走・様子長め・裏切りもしきりに起こっていた。この理由としては中華地域における兵士への蔑視・差別・不信だけでなく、将兵ともども金で雇われた傭兵であったことが挙げられる。モンゴルの強みは共同体としても組織力・結束力にあったと言える。ついで周到な計画性がある。自軍に対しては徹底した準備と意思統一、敵方については徹底した調査・調略工作をし、たいていは二年ほどかけた。戦う前に敵が崩れるか、自然のうちになびいてくれるように仕向け、モンゴル遠征軍はただ更新すればよかった。敵方への下工作や根回しが不十分なまま、敵軍とむかいあったときにしばしば敗れた。ホラズム・シャー王国へは国境の要塞都市はすべてモンゴル軍の的確な攻撃に陥落し、そのあとは勝手にホラズム・シャー王国が内部崩壊した。イスラーム世界で最強と目された王国が消え去った。ところがアム河をこえて、現在のアフガニスタンの領域に踏み込むと、さっぱりうまくいかなくなった。東部イランのいわゆるホラーサーンでは古くから栄える都市ごとに抵抗にあった。アム川以南については事前の調査も下工作もできていなかったのである。老人チンギスは1222年にはアフガニスタン作戦に見切りをつけ、全軍に旋回を命じた。しかも、きわめてゆっくりと時間をかけて慎重に退いていき、人も年も領域も失うことなく確実に握り続けた。チンギスは冷静沈着・平静な組織者で、戦略ガンの確かな老練の指導者であり、猪突猛進のアレクサンドロスのような戦場の勇者ではなかった。モンゴルは高原統一のころからどちらかというと戦わない軍隊で、指導者同士の論戦や談合、誰かの調停などで一方が他方に雪崩をうって合流しており、人命を損なうのは回避された。世に言う大量虐殺や恐怖の無敵軍団のイメージはモンゴル自身が演出した戦略だった。またモンゴル帝国の内部事情を詳しく語る同時代のペルシア語の歴史書には、敵方の人間・集団・部族・都市・国を吸収したり引き入れるときはイルになると表現された。これは仲間となるということであった。従来はイメージでこの言葉を征服するや降伏させると略したが、テュルク語のイルはモンゴル語のウルスと同義語である。モンゴル帝国にあからさまな人種差別はほとんどなかった。能力、知恵、技術、人脈などひとにまさるなにかがあれば用いられた開かれた帝国であった。
 モンゴルという集団は唐代の漢文文献にも現れているが、モンゴル部が浮上してくるのは12世紀からである。それが全体の名乗りとなったので、この時点でのモンゴルはチンギスのもとに結成された政治組織体、いわば国家のことである。クビライによって作られた大元ウルスが中華本土を失い、政権の中核を構成していた相当数の人々が北の高原へと本拠地を移した。その中には漢族もルーシやキプチャク高原からやってきたもの、カフカース北麓を故郷とするものなど多種多彩な顔ぶれであった。これらの人々と以前から高原に住んでいた人々が主体となって別の時代が始まる。そしてそこに住む人たちはモンゴル民族と呼んでもさしつかえない実態を備えるようになっていった。モンゴルの中で第一の集団はモンゴル部の人、第二集団は1206年に国家草創のときにモンゴル・ウルスに参加した部族たち、第三集団は1211年に金國侵攻作戦がはじまると退去してモンゴルになびいた金国統治下と西の第二次キタイ帝国にぞくしていた東西の遊牧キタイ族である。1227年にチンギスが他界した際には前モンゴルのハザーラ=千人隊は129個あったという。モンゴル秘史の95個からの増加分のかなりのものがキタイ族と見てよい。この129個はモンゴル期間部隊で開祖チンギス譜代の名門の家柄とされ中核をなした。そのほかにもユーラシア各地のテュルク系の人たちが取り込まれr、東方の華北の軍閥や、西方のムスリムやルーシや東欧のキリスト教勢力についても有力者がイルになるとモンゴルとして認定された。こうして文明圏を超えた人間結合の広がりをつくった。イランの文人行政官は第四大モンゴル大カアンとして正式に即したモンケに拝謁し、体制を整え東西の大遠征を企画しつつあったのを見てペルシア語で「世界を開くものの歴史」という同時代の歴史書を著した。

 第四章「モンゴルとロシア」、、、1229年にチンギスカンの跡を継いだ第二代オゴデイは1232年に大金国に出兵し主力を壊滅させた。またライバルの末弟も不可解な死をとげ内外の二つの邪魔者を消し去り、東方=左翼を叔父、西方=右翼を兄とトロイカ体制を確立した。大カアンからの命令をモンゴル語と現地語で文章化して伝える駅伝システムの交通網も整備されていった。1235年に郊外に広がる野営地でモンゴル帝室と諸侯によるクリルタイが幾度もひらかれ、大金国消滅後の華北地方の後処理と東西への大遠征について討議された。東は南宋遠征、西はジョチ家の次子バトゥによるロシアからヨーロッパを恐怖の底に陥れた長距離の陸上侵攻作戦である。ただバトゥの西征の第一の目標はキプチャク草原と呼ばれる広大なステップの制圧であった。ジョチはステップ以西への進出は運命づけられていた。1219年に始まるホラズム・シャー王国打倒においてはチャガタイとオゴデイが国境の要所オラトルにとりつき、ジョチはシル河にそって、その下流域へとむかった。ジョチはいったん南下してホラズムでの掃討作戦に協力したのちに軍を転じてアラル海の北方に出た。そこはテュルク系の遊牧民であるカンクリ族の本拠地であり、彼らはホラズム・シャー王国の軍事力の主体をなしていた。このアラル海の北方草原におけるジョチの軍事活動がどのようになされたかのデータはなく、モンゴル本軍とは別行動をとり、チンギスに先立って他界したジョチについて、父チンギスとの不和など従来あれこれと想像されてきた。しかし筆者はそういうことはなかったと考える。ジョゼとスベエテイのホラズム・シャーの国王ムハンマドの追撃はよく知られている。チンギスは国王の遁走を知ると二人の駿将に追撃を命じた。ムハンマドはカスピ海のアーバスクーン島に逃れたが、両将はおsれをしらず西北イランのアゼルバイジャンにむかい、キプチャク族出身のウズベクをこうふくさせ、一度引き返して北上してシルヴァーン地方のシャマーハをへてカスピ海西岸の要衝デルベンドを攻略し、カフカース北麓へと出た。そこでキプチャク兵を買収しアス族、チェルケス族を撃破した。1222年キプチャク族は退去して西ないし西北へと緊急避難した。ルーシの故郷キエフに入ったキプチャク分族のコチャン・カンはキプチャク・ルーシ連合軍を組織し、1223年5月31日アゾフ海の北岸カルカ河畔でモンゴル軍と開戦し、大敗を喫した。キプチャク兵団は同じ遊牧系の戦士たちであったが、十分に組織化されておらず裏切り・戦線離脱などは普通だったので、よく組織化されたモンゴル軍に勝てなかったと分析する。モンゴル軍はこの後敵を追って西進するもヴォルガ・ブルガールの地で抗戦されたために東還の道をとり、イルティシュ流域で帰途にあったチンギス本軍に合流した。風のようにやってきて去っていった恐怖の軍団の噂はルーシを超えて西方に伝わった。タルタル=タルタロスたる地獄からやってきた民という話が被せられタタールの名前となったとされる。キリスト教会の宗教者たちは恐怖をあおり民たちをしもべとした。1235年のクリルタイで決定した西征軍にはバトゥ率いるジョチ家の王子たちの他、チャガタイ、オゴテイ、トルイの諸王家から、それぞれ長子ないしはそれに準じる王族が参加することになった。のちにトルイ家の長男モンケも加わっていた。帝国内で最大の所属牧民をかかえるモンケは最重要人物であり、大カアンのオゴデイは即位後ただちにモンケを自分のことして処遇することを表明した。バトゥにとってモンケは政権中枢からやや排除された形のリーダーとして盟友に近い存在であった。くわえて二人の母はケレイト王家の皇女で姉妹の関係にあった。つまりバトゥとモンケ、クビライ、フレグ、アルク・ブケヨン兄弟とは父方に置いて従兄弟どうしだっただけでなく、母方においてもそうであった。さらにこのふたりは能力・見識・器量の面でも屈指の人物であり、多言語に通じ、将才にあふれ、人望もあった。
 バトゥ自身が率いる本軍は、ヴォルガ・ブルガールとバシュキールに向かった。ヴォルガ流域の中流域をおさえるブルガール族の住地は、現在のタタールスタン共和国の一帯であり、テュルク系の遊牧民バシュキールの地はおなじく現バシュコルトスタン共和国に相当し、13世紀から現在に至るまで基本的には変わっていない。いっぽうで事実上モンケを主将とするもういちぐんはややその西と南、マリやモルドヴァの民、そしてキプチャク族の一部とアス族を制圧すべく進んだ。これらも現在のマリ・エル共和国、チェヴァシュ共和国、モルドヴァ共和国、そしてキプチャク草原の北辺にあたる地域である。1237年にはモンゴル両軍の作戦行動は終了した。いくつもの分族にわかれていたキプチャク大集団のうち有力な首長バチュマンを倒し、統合されていなかったキプチャク諸族はてんでに自走する。そうしてルーシ東側一体を握ったモンゴル軍は再び合流した。
 西征の第二段階としてのモンゴル軍のルーシ侵攻は北東ルーシ地域から始まった。リヤザン地方に入り1237年12月にリャザンを攻略し、コロームナに向かい、ウラジーミル長子が率いる軍を撃破した。1238年1月にモスクワを降した。モンゴルは破壊と虐殺の限りを尽くしたとよく言われるが、人がどのくらいいたのか。そして翌二月、ウラジーミルを眼前にしたが土塁に囲まれ粗末な木柵がつくられた情けないもので、文化としてはごくごくささきな地域だったと分析する。周囲7キロメートルというから中華地域ではくらでもこのくらいの都市はあった。モンゴル軍はウラジーミル到着後わずか五日でとくに苦労もせずにルーシ最強最大の都市をあっさりと攻略した。このあとモンゴル軍は諸隊に分かれ各隊はやすやすと諸都市をおとした。ウラジーミルを捨てて逃走した大公ユーリーは1238年に囚われて大公の軍は壊滅した。モンゴル軍はキプチャク大草原に入っていった。ロシア人史家はこの間モンゴル軍は休養につとめていたのだという見方が目につくが、実際にはカフカース方面からクリミアに至る広大な平原地域で、遊牧民の各勢力を相手に大掛かりな軍事活動を展開していた。キプチャク系の諸集団はもとより、黒海にほど近いチェルケス族やクリム族を次々と制圧し、カフカース北麓へとすすんでアス族の本拠をつき、その拠点都市たるマンガスを陥し、南北交通の要衝であるデルベント一帯をも掌握した。これによってキプチャク草原はほとんどモンゴルのものとなり、西征の目的を果たした。筆者はルーシへの侵攻はついでだっと分析する。ロシアの歴史家はモンゴルの被害によってロシアの発展を遅らせた原因と論ずるが、データは乏しい。一方でモンゴルの被害は権力者にとってみずからを正当化してくれるものだった。1239年にモンゴルの軍営ではオゴデイの長子グユクとチャガタイ家の風は主将バトゥと不和となり、その報をうけた大カアンのオゴデイは激怒して、両人の召喚を命じ、トルイ家のモンケに護送を求めた。1240年からの軍事行動はジョチ家主体のものになり、カルパティア山脈をこえてハンガリーに向い、1241年当時のヨーロッパで屈指の強国とうたわれたベーラ四世ひきいるハンガリー軍をシャヨー河畔で撃破した。1242年3月には皇帝オゴテイ崩御と西征軍の帰還命令がとどき、ゆっくりと旋回したが、モンゴル本土にはかえらず、ヴォルガ下流、カスピ海にほど近いところに帳幕の本営を構えて、東はアルタイさんから西はドナウ河口にいたる巨大な領域をジョチ一門で分有するかたちを作り上げた。
 少し振り返り1241年にバトゥ主力から分かれてホーランドに入った一隊がレグニーツァ東南の平原でポーランド・ドイツ騎士団連合軍を撃破したとされる。ヴァールシュタットの戦いと呼ばれ、西洋史家はこれを世界市場で名高い大事件だと公言するが、まことに疑わしいと筆者は問いかける。ロシア史上の英雄と数えられているアレクサンドル・ネフスキーについてもノヴゴロド公としてネヴァ河畔でスウェーデン軍に打ち勝ったことに因む。ただしそのときにバトゥ軍が東西ルーシを席巻していた。また1242年に凍結したチューど湖上においてドイツ騎士団を撃退して英雄扱いされる。東方からのモンゴルの力が圧倒的で抗しがたいことを察知してみずからを犠牲としてモンゴルに服従し、無用の流血と荒廃を回避したとされる。一方でロシア帝国時代に作られたモンゴルに野蛮なモンゴルに生き血を吸われ、しゃぶり尽くされたタタルのくびきの話がある。この二つの事象は二律背反であると指摘する。アレクサンドル・ネフスキーを有名たらしめた二つの先頭は実はあったかなかったかわからぬ程度のもので、おじや弟を追い落とし、モンゴルの力で大公位を認められており、いつの時代でもいる現実対応型の野心家であったとする。
 バトゥの西征以降、ルーシに点在する権力者たちはバトゥ・ウルスを主人とせざるをえなくなった。ヴォルガ流域を南北に季節移動するバトゥ家の天幕軍は黄金の刺繍でかざられた大天幕を中心とし、ルーシ諸侯たちから黄金のオルドと呼ばれた。日本語の金帳カン国である。統合を描いた弱小勢力のよせあつめにすぎないルーシが臣従せざるを得なかったが、ジョチ・ウルスのおかげで西から攻撃されることはなくなったし、モンゴル帝国による巨大な東西南北の交通・通称システムの恩恵にもあずかった。ルーシ各地にはテュルク語でバスカクと呼ばれる代官が駐在し、しばしば法外なとりたてを行ったとされ非難される。しかしモンゴル語でダルガないしダルガチ、ペルシア語でシャフナと呼ばれる役職はモンゴル支配下の定住地域ではごく普通におかれた。ルーシに課せられた十分の一税も他の地域でも認められている。モンゴルの支配は、基本的にはどの地域でもゆるやかで、徴税も他の時代より低率だったことで共通している。一つのポイントはルーシ諸侯の徴税をとりまとめてモンゴル側に送っていたのがアレクサンドル・ネフスキーであり、それを引き継いだのはモスクワであった。ジョチ・ウルスは最も長命で緩やかに解体し、16世紀なかばにモンゴルへと逆襲を始める。

 第五章「モンゴルと中東」では、、、1241年にオゴデイが他界した四年後、1246年にモンゴルの帝位はグユクが大カアンとして即位した。オゴデイの突然の他界、ほとんど同時のチャガタイの死は毒殺の可能性もある。西征に成功したバトゥは大カアン権力の邪魔に見えて、グユクは中東遠征を表明し宿将イルジギデイをイラン方面に出立させるとともに自らも西に向かった。バトゥも本陣を出発して大軍を率いて東進した。モンゴル帝国を東西大戦が間近となったが、グユクが中央アジアの地で急逝した。バトゥが放った刺客によるとされる。結局1251年にバトゥの強力な後援により、トルイ家の総帥モンケが第四代の大カアンとして即位した。東西両面作戦を毛計画し、当方を担当したクビライはクチュの失敗を踏まえ、極めて慎重な方針をとった。南宋を直接攻撃せずに、まずは雲南・大里を攻略し、長期戦覚悟の構えをした。しかしこれが意気込む兄の不信を海、対立と更迭、皇帝モンケの新征となり、その挙げ句、モンケは不慮の死をとげる。かたやフレグを主将とする西征では1253年にモンゴル高原を出発した。フレグ軍の足取りはゆっくりとしており、兵を増強しつつ進み、次第に陣容・糧秣などを整えながら、1255年マー・ワラー・アンナフルのケシュいてイラン総督の出迎えを受けた。アム河を渡るに先立ち、これから進軍する地域の権力者たちにモンゴルへの協力・参陣を呼びかけ足元を固めた。当面の敵はイスマーイール教団となり、1256年にアム河をわたりイランの地へ入った。1255年12月当の敵であるはずのイスマーイール教団で政変がおこり、第七代ムハンマド三世が側近に殺害された。同教団を撃滅するとのフレグの総触れがはっせられたときであり、モンゴルとの和平による生き残りを図る子による暗殺とされる。イランを中心に166年にわたり中東と十字軍を震え上がらせた最強勢力は一年もかからず消滅した。
 フレグは戦後処理と処軍の休息をはかったのち、西へむかい、ハマダーン街道から一気にバグダードへ進行して、1258年、北から大きく同市を包み込むように軍を配置した。調査や下工作は徹底していたが、慎重に交渉と駆け引きをつづけカリフ陣営への切り崩しを図った。結局アッバース朝の第37代カリフ、ムスタースィムの政権は内部分裂をおこした。万策尽きたカリフは1258年2月に無血開城しカリフは降伏後、財宝とともに等に幽閉され餓死させられたとも絨毯に巻かれて馬蹄に踏みしだかれたともいう。ここに37代500年にわたるアッバース朝は幕を閉じ、カリフ一族はエジプトに逃れ、すこしのちにマルムーク朝のスルターン、バイバルスが正当なカリフとして擁立された。バグダートは開城後に略奪と殺害が横行したというが、フレグ自身がフランス王ルイ9世にあてた書簡に20万人以上が殺されたと述べているが、当時それだけの人口があったとは思えず、モンゴル軍の常套手段の恐怖の言いふらし作戦の一つであった可能性があると筆者は指摘する。フレグはいったん西北イラン、いわゆるアゼルバイジャン高原に北上させ、将兵に休息をあたえた。緑草におおわれた絶好のてんちであり、かつてはユーラシア東西南北をおさえる要衝の地であった。モンゴル西征軍は陣容をととのえなおして南下の姿勢に入り、イーラーン・ザミーンの地に総触れを発した。1260年フリグ軍はシリアのハラブ=アレッポ、ダマスカスと立て続けに陥落した。情勢をみて十字軍権力はモンゴル軍に加わった。ここからイスラーム撃滅の好機としてモンゴルとの同盟論がある。11世紀以来イスラーム側からすれば十字軍という名のフランク族の襲来が続いていたが、どちらも決定力を欠き、奇妙な共存状態が続いていた。しかしモンゴルという圧倒的な軍事力のみならず、宗教にこだわらない政治権力が襲来した。旧アイユーブ朝より権力を奪ったばかりのマルムーク軍団のエジプトに進撃しようとしたさなか、アレッポのフレグ本営に大カアン・モンケ急逝の知らせがもたらされた。この結果、南宋にむけて南下中のクビライと、モンゴル高原に付す役としてとどまっていたアリク・ブケの間に帝位継承戦争がくりひろげられ四年後クビライが第五皇帝として即位した。モンケ他界の知らせがシリアに届くまで7,8ヶ月を要しているが、通知を受けたフレグは国内の帝位継承をめぐる動乱が中東に知れ渡るのは時間の問題と、アゼルバイジャンに引き返してイラン方面を確保して、動乱のゆくえを見守ることにした。ここからモンゴル西征軍がフレグを主人と仰いでアゼルバイジャン高原に腰をすえることになり、フレグ・ウルスが自然発生的にできたと考える。
 シリアをまかされたはずのケド・ブカはエジプトのマルムーク政権に降伏を進める使節団を送った。ところがその使節団が死刑に処せられ、マルムーク軍が北上の構えを取ると、ケド・ブカ率いる騎馬軍1万2千も南下の体制に入る。両者は正面衝突しマルムーク軍が圧勝してケド・ブカも戦死する。東地中海沿岸にあったモンゴル側の拠点は次々と奪われ、しいにシリアからも追い出される。一方のマルムーク権力はエジプトとシリアに強固な地盤を築いて長期政権となる。クトゥズは暗殺されクマン族=キプチャク族の出身のバイバルが定礎者になる。テュルク人の王朝とアラブ人が読んだように、異民族たちの軍事家力であった。ジョチ家のベルケはアゼルバイジャンの草原を欲していたが、フレグがそこを本拠地に新しい権力体を作る様子が見えると1261〜62年に軍を南下させデルベンドを超えて攻撃をしかけた。フレグ軍も反撃し決着はつかなかった。両者にとってお互いが東方への介入の足かせとなっていた。この事態はエジプトのバイバルスにとって好機となり、ムスリムとなっていたベルケとの共通の敵であるフレグに対する同盟を水路と海路が可能にした。それと対抗してフレグはヨーロッパとの提携を模索するが実現しなかった。フレグが旋回後に時間をかけずにウルスとしての支配体制を整えていたが、それは多人種による実務機関が機能していたからで、西征には徴税や財務機構を伴うだけでなく、ブレイン・知識人・技術者・学者なども共に移動していたのではと分析する。またフレグはマラーガに天文台や図書館を建設して、著名なムスリム天文学者を招聘したり、バグダードから書籍を移動させた。
 帝国の東半分を抑えたクビライがフレグやベルケに統一クリルタイ開催を呼びかけ了承された矢先にフレグは突然に逝去し、さらにフレグの死の報に南下していたベルケも陣中に病没し、チャガタイ家のあるぐもこの前後に逝去する。フレグ・ベルケ・アルグ三人の巨頭のあいつぐ死はあまりにも不自然であった。フレグのあとは庶長子のようなアバカが継いだ。翌1266年ジョチ・ウルス軍が南下してくるも右翼のヨシュムトが奮闘しアバカも参戦し、二週間後のベルケの死去により危機は去り、アバカの権威は確立した。クラ河の北岸地区にスベとよばれる城壕による長城線を構築して国境線とした。四年後にチャガタイ家の権力をうばったアルグが東から迫った。北のジョチ・ウルス、西のマルムークという同盟に挟撃されている状態であったが、アバカは迎撃し、カラ・スウの平原で死闘の末にバラク軍を撃破した。フレグ・ウルスはゆるぎなくなり、チャガタイウルスは没落し、オゴデイ家のカイドゥにのっとされていく。ただフレグ・ウルスでは君主位の権威が確立せずに、その都度、年長のものが野心をもやし前君主の嫡男とあらそった。フレグの早すぎる死、アバカも父と同じく48歳で他界したことがフレグ・ウルスの権力基盤づくりを不十分にした。
 フレグ・ウルスは温存された在地の中小勢力などの不安定要素から自壊に向かっているような状況であった。カザンが紛乱のはてに1295年に第七代君主として即位した。ガザン時代こそがフレグ・ウルスの最盛期というのはあやまりで、ガザンの改革が実を結ぶのは次の君主である弟のオルジェイトゥ時代またはそのさらに子の第九代君主アブー・サーイードのころであった。ガザンは即位以前の父の四代君主アルグンの治世ではさよくにあたるホラーサーン太守として東方にいた。現君主の皇太子ともくされる人物はここに鎮守するならわしであった。中央ウルスたるアゼルバイジャンからはるか遠方に離れるため父親が他界する救急時には不利となった。ガザンは中央政局をうまくとりまとめたガイハトゥに抑えられた。ガザンは軍事上も不利となったが、イランの在地勢力からの支援を期待して、イスラームへ改宗にふみきり成功する。
 次のオルジェイトゥの治世ではフレグ・ウルスの国力が回復し、モンゴル帝国全体が東西融和をとげ、ユーラシア全体がかつてない平和状態になった。モンゴル帝国の課題であったオゴデイ系・チャガタイ系がまとまらない中央アジアだったが、オゴデイ一門のカイドゥがチャガタイ諸系を従える形で、ゆるやかなかたまりをつくりドゥアをパートナーに選んだ。ペルシア語の史書ではカイトゥの国と表現する。ところが1294年に老帝クビライが80歳をもって長逝し、その孫テムルが第六代の大カアンになると、次第にカイドゥの動きが活発となり、翌95年に、カザンがフレグ・ウルス当主につき、イラン方面が安定化に向かうと、カイドゥとドゥアは大元ウルスの西辺へ兵を動かすようになった。カイドゥ傘下の人々でテムルになびく者が出てくるなか、カイドゥはモンゴル本土に勝負をかけ1300~1年にかけてアルタイ山一帯でモンゴル同市の会戦が繰り広げられ、カイドゥ側が敗れる。カイドゥがそのときの傷がもとで他界し、抑えられていたドゥアが中央アジアをせいあつして、同方面の王族などがこぞって大カアンのテムルにあらためて臣従を近い、大カアンの使節団が各ウルスを順次おとずれた。オルジェイトゥは急逝した兄カザンの地位を引き継いだと途端にモンゴルの東西和合となり、北からの脅威も消えマルムーク政権との争いも薄らいだ。フレグ・ウルスは第四代アルグン移行、ヨーロッパとのかかわりを重ねてきたフレグ・ウルスはこれを堺に陸路と海路の両方で結びつきを深めていく。
 フレグ・ウルスはイル・カンの名で呼ばれていたがイスラーム王朝に系統だているのは間違いだったとする。オルジェイトゥは仏教徒にしてキリスト教徒ともなり、さらにイスラームのスンナとシーアの間をゆれた。モンゴルは素朴なテングリ信仰を本質とする多神教徒であった。モンゴルが中東にもたらしたものはテュルク・モンゴル式の軍事権力とそのシステムを中東にもちこんだ。カザン以降に軍事機構を中心にすえ、多人種の官僚郡による財務と行政、イスラームを主体とした各宗教や宗派ごどの聖職者組織の3つを国家の柱とした。

 第六章「地中海・ヨーロッパ、そしてむすばれる東西」では、、モンゴルはフランスをヨーロッパ最強の王国とみなしていた。ルイ9世の治世はモンゴルの前半期にあたる。ルイ9世は十字軍に2度参加したが、第七回のキプロス滞在中にモンゴルからの使者が来たという。船の到着をまったり季節をまったり8ヶ月キプロスに留め置かれ、1249年5月に出発する。すぐにエジプトからの激烈な風により船がながされ騎士2800騎が700騎に半減してしまうがそのまま進む。6月にダミエッダで待ち構えていたエジプト軍の前で敵前上陸し苦戦するもエジプト軍の突然の退却により救われる。やすやすとダミエッダに入城できたので、おごり浮足立った。10月末まで軍を動かさなかったがルイは持久戦をすて海路に進行する。伝染病でないぶからくずれ補給もままならず退却した。エジプト軍の主力はキプチャク草原や東方などからやってきたもので、フランス軍の肉弾戦は時代遅れだった。1250年の4月ごろか1万2千ものものが投降して捕虜になる。ルイ9世以下は巨額の身代金により釈放された。一方でスルターン・サーリフは先立つ1249年11月に他界しメソポタミア方面から呼び寄せられた子がスルターン位をつぐも自分の配下のクルド人を登用して政権を支えていたエジプト在住のマルムーク将軍を排斥した。これに激怒したマルムークのバイバルスは新スルターンを暗殺した。捕虜となったルイはバイバルスなどと顔見知りとなったが、ジョワンヴィルの語るところでは、ルイの王としての気品、毅然たる態度、信仰への誠実さはマルムーク将官の心を打ったという。5月8日にルイ9世たちはエジプトを離れ、海路にてイェルサレムにほど近いキリスト教勢力の本拠地アクレの港に入った。ルイは4年間、聖地とその周辺を離れなかった。母の王太后は帰還を求めたが最後の捕虜の生還をみとどけるまではと踏みとどまった。そしてルイはもっともエジプト・中東情勢を知る者となり、通算6年間にわたる命がけの団体生活の中で立場を超えた一体感がルイの評判をたかめた。シリア方面のアイユーブ権力とエジプトのマルムーク政権との対立を利用して、ルイはあらたなる足場を築こうとする。エジプト側は連帯をもとめてイェルサレム王国なるものの西辺をルイにゆずる。シリアのアイユーブ政権とは休戦協定がむすばれ、地中海東辺の十字軍国家の安全が約束される。ルイは1254年4月にパレスティナをあとにする。それから550年後にナポレオンをエジプトで迎え撃ったのもマルムーク軍団だったが銃火器の前には騎兵は用をなさなかったという。
 ルイ9世がキプロスに滞在していたときモンゴルからの使節団が訪れた。テュルク系のネストリウス派キリスト教徒で、モンゴル将師イルジギデイからつかわされていた。イルジチデイは第三代モンゴル皇帝となったグユクから中東大侵攻の先遣大将として任命されて、東部イランのバードギースの地に駐留していた。グユクがしたためたヨーロッパへの国書を手渡し、ルイは礼を尽くして使節を遇し、返礼の使節としてすでにモンゴルと接触した経験をもつロンジュモーのアンドルーを指名した。しかし1249年にアンドルーがちがバードギースにあるイルジギデイの運営についたとき、グユクは死去しており、次期の大カアンが誰になるか分からずモンゴルは混沌の中にいた。イルジギデイは今は亡き旧主の皇后オグル・ガイミシュのもとにアンドルーたちを送った。帝国をあずかるかたちとなったオグル・ガイミシュは帝都カラ・コルムでなくグユクの個人領たるエルミにいた。彼女はルイからの使節の政治上の意味合いを理解していなかった。また1252年、オグル・ガイミシュは新帝モンケの命で処刑される。ルイ9世はモンゴルへの通史をひどく後悔したという。ただ未練はあったようで1253年にはギョーム・ドゥ・ルブルクを一介の修道士としてモンゴルに派遣した。バトゥによって皇帝モンケのもとに赴くようにすすめられ、苦労を重ねて1253年12月末にカラ・コルム南郊の幕営につく。それから7ヶ月間、首都一帯を眺め1254年7月にルイ9世宛の返書を授けられ、皇帝の庇護のもと帰還する。ルイはすでにパレスティナを去っていたのでルブルクは旅行記を書いた。
 ラッパン・サウマーはテュルク系オングト族出身でネストリウス派キリスト教僧であり、モンゴル時代にユーラシアを東から西に旅行した。東は現在の北京のもとになるダイドゥ(大都)で帝王クビライが25年の歳月をついやして建設した都市である。マルコ・ポーロやイブン・バトゥータの旅行記が複数人の見聞の合成物と考えられるのに対して、ラッバン・サウマーはまぎれもない一人の人間であり弟子による伝記が残されている。ここからサウマーの半生が語られる。信仰に生きることに考え、1276~7年はるか西方の聖地イェルサレムへの巡礼に弟子のマルクと共に出発する。二人はタングト地方でクビライ政府軍とグユクの長子ホクとの戦いで6ヶ月ほど足止めされた。タラス河畔にて幕営していた実力者カイドゥのもとに伺候し、安全を保証する符をさずけられた。そしてフレグ・ウルス領たるホラーサーンをへてアゼルバイジャンにいたる。バグダードで法王マール・デンハに謁するためにバツダートについた。首都たるマラーガで拝謁し、バグダートからフレグ・ウルス君主アバカの幕営に趣、直喩を授けられてイェルサレムにむかった。アルメニア・グルジアから海路をとって黒海・地中海ルートをとろうとしたがグルジアがマルムーク権力におさえられていて危険であきらめざるを得なかった。マルクはしばらくイルビル近くの聖ミカエル修道院に身を寄せていたが、1281年にマール・デンハが他界した。葬儀にかけつけたマルクはなんと一致して新法王に推挙される。理由は政治的なものでモンゴル語が自由で風俗にも通じているからということであった。マルクは自分には教養もなく、神学上の知識も薄く、弁論の才にもかけるし、カトリコスに不可欠なシリア語ができないから全く不適格であると固辞した。サウマーはこれは神が定めたことで逃れられないと、フレグ・ウルス君主アバカに判断を仰ぐため訪れた。アバカは金符と叙任状たる勅書、前任のマール・デンハの印璽の三点セットを与えた。かくてマルクは37歳で第58代のカトリコスとなった。1281年11月のことである。ヤバラーハー三世となったマルクの行く手は茨の道だった。1282年アバカは死去し、すぐに弟も死去した。即位したアバカの弟テクデルは新イスラームの姿勢をとり新キリスト教政策は抑えられ、ネストリウス教会も迫害される。その二年後アルグンが実力でアフマドを倒し、1284年8月に第四代君主として即位すると、自身はティベット仏教を奉じる一方キリスト教を厚遇した。アルグンは内政・外交ともに積極策をとり、ヨーロッパ・キリスト教諸国との強力な提携、さらに軍事同盟を求めた。アルグンはこの使命を託せる人物をヤバラーハー三世に問うと、彼は言語能力と人柄から師であるラッバン・サウマーを推薦した。サウマーは金や馬の贈り物をさずけられ、通訳を選ぶと、まずはコンスタンティノープルに上陸した。ビザンツ皇帝アンドロニクス二世は一行を歓迎し、ハギア・ソフィア大聖堂など各種施設を参観させた。次に一行は西に向かいナポリを目指した。途中大きな火山が噴火して溶岩のために誰も近づかないことを耳にした。この第分化は1287年6月におきたシチリア島のエトナ火山、ないしはティレニア海に浮かぶストロンボリ火山のそれであり、サウマーたちの旅行とその記述がまことに正確であることを示すものとして古くから知られている。さらにサウマーは歴史の証言者にとなる場面に出くわす。それがシチリアの晩祷である。ナポリ王宮に参上したサウマーをジャルル・ダンジューは丁重にもてなした。ところがシチリア側についていたアラゴン連合王国との海戦がなされ、シャルル・ダンジューとその兵1万2千を殲滅して、その艦隊を海に葬ったと伝記は記す。サウマーたち一行は陸路でローマに向かった。途上で教皇ホノリウス四世の逝去を聞く。ローマに着くと教皇他界をうけて12人の枢機卿がちが庶務を取り仕切っていた。アルグンからの軍事同盟の申し出については返答がなかった。一行は北に向かいシエナ、フィレンツェ、ピサなどをへてジェノヴァに至る。ジェノヴァでは選挙制が敷かれていたことにおどろいている。ジェノヴァとフレグ・ウルスはすでにある程度の結びつきをもっており、ブスカレッロというジェノヴァ出身の大聖人がアルグンの外交・通商顧問をしていた。したがってジェノヴァの人々はサウマーたちを大歓迎した。キリスト教に親しみをもつフレグ・ウルスは魅力的な存在であり、互いに表敬の意味があったと推測される。さらに北上して、サウマーはもっとも期待する相手であるフランス王国に至る。サウマーは歓迎され国書と進物を献上し、軍事同盟の申し出については国王フィリップ四世はフレグ・ウルスとの連帯を否定はしなかった。一ヶ月ほどパリに滞在したがパリには宗教教育をうける学生だけでも三万人以上いたと特記されている。パリを去る際にはフィリップ四世は高価な衣服をさずけた。そこから南西に向かいガスコーニュ地方に駐営していたエドワード一斉に謁するため、二十日間旅をしてボルドー市にいたった。ボルドー市の人々はサウマーたちの素性をしり国王に伝えると、エドワード一世は喜んで招き入れた。サウマーたちはアルグンの国書と進物、法王の書状を出しイェルサレム問題について所論を述べると、国王は同意して大宴会でもてなした。教会堂などの参観を終えると進物と旅費を下賜され、東のジェノヴァ市にもどった。サウマーたちは1287年の冬をそこで過ごす。新教皇ニコラウス四世が選出されていたので、一行はローマに向い国書と進物を献呈し、ローマ教皇庁にて大歓迎をうけたと伝記は語る。往路を逆にだどってフレグ・ウルスに帰国したサウマーたちは教皇と各国の王から託された国書・文書・進物をアルグンに捧呈し、ヨーロッパの情勢をはじめ、見聞したことを伝えた。アルグンは喜び、サウマーをそのまま自分のそばにとめておくこととした。このサウマーの旅行記は集史の第二部・世界史のフランク史とともに、東方が見たヨーロッパ像として、世界史状でも稀有のものである。このサウマー使節団を皮切りに、アルグンからヨーロッパへと遣使が続けられ、反対にヨーロッパからも宣教師団が東方に送られた。

 第七章「『婿どの』たちのユーラシア」では主にモンゴル帝国以後の帝国を分析していく。モンゴル以後の王者はその権力の正当性をチンギス・カンにもとめるようになった。モンゴル帝国から生まれていた国家には様々ある。モンゴル帝国の中で最も遅く確立されたチャガタイ・ウルスはもともと中央機構が不十分で、ドゥア一族が他界していくと次第に求心力を失っていった。細分化の中でチャガタイ・ウルスの東半からチャガタイ家のちを引くトグルク・テムルが浮上した。彼はチャガタイ・ウルスというかたまりを再統合させる勢いがあったが死後、覇権は薄れていく。今度は西半から抬頭したのがいわゆるティムールである。これはアラビア文字表記に由来し、本来の発音はテムルである。彼はシル河の南を活動券とし、マー・ワラー・アンナフルからホラーサーンを制圧し、フレグ・ウルスが解体したあとのイラン中央部からアゼルバイジャンに進出し、さらに小アジア・シリアにも遠征した。また一体性を失いつつあったジョチ・ウルスを再統合せんとしたオルダ・ウルスの左翼部分のチンギス裔トクタミシュとあらそいキプチャク草原にも軍を進める。かたやチャガタイ・ウルス時代からのインドへの南進政策もひきついで、デリー・スルターン政権とその統治下のヒンドゥースターン平原へも手を伸ばした。さらに1402年には抬頭しつつあったオスマン権力を、現在のトルコ共和国のアンカラ近郊にて儀軌はし、君主バヤジットを捕虜として、いったんは滅亡の淵までおいこんだ。こうした広範囲でくりひろげられたティムールの目覚ましい活動は中央ユーラシアが産んだ最後の覇王ともいえるものと筆者はいう。ところが彼は生涯をつうじて一度もカアンまたはカンとさえ称さなかった。
 1336年、ケシュ郊外に生を享けたティムールは言語ではテュルク化していたものの、チンギス・カンと共通の先祖を持つというモンゴル支配層に属するバルラス部という有力な部族集団の出身であった。またバルサス部はチャガタイ・ウルスでは一貫して最高の門閥貴族に位置づけられた。ティムールはモンゴル貴族の子孫であり、モンゴル・システムを尊重した。たとえば重大な告示はクリルタイ(大集会)を開いて協議・決定した。カンと名乗れなかったティムールはチンギス・カンの末流にあたるモンゴル応じのソユルガトミシュという人物を名目上のカンの位につけ、自らはチンギス王族のチャガタイ家後を引く王女をめとって第一夫人とした。その結果、ティムールはチンギス・カン家の婿となりアミール(司令官)・ティムール・キュレゲン(婿)と名乗った。チンギス・カンの権威を使い、自分はナンバー2の実力者としてチンギス家の再興という名分でモンゴル帝国以来の様々な遊牧民集団を束ねた。このティムールが採ったこの方式はそのままティムール朝の君主にも引き継がれた。このような方式はモンゴル帝国時代でもモンゴル帝室と一体化して繁栄したコンギラト、イキレス、オングト、オイラトなどの駙馬王室などに相当し、モンゴル時代以来に広範囲ではず多く存在した婿どのたちの一人であったと言える。このティムール権力の構造はムーイッズル・アンサーブという系譜図にはっきりと現れており、前半をチンギス家、後半をティムール家という二段仕立ての構成を採っている。この系譜図はムガル帝国統治下でインドで書写されたものもあり、ムガル帝国でもチンギス血統への尊重が見える。
 これとよく似た事例としてモンゴルとロシアの王権の連動を取り上げる。ジョチ・ウルスによるルーシを含めた西北ユーラシアの統括的な支配はゆるやかであったが一世紀半ほど続いた。トクタミシュはティムールの援助もあってジョチ・ウルスを再統合したが、1389年ころより対立を深め、ティムールにテレク河畔で惨敗し、リトアニアに逃れた。これによりジョチ一門の結束力は弱まり、ジョチ・ウルスの右翼であったバトゥ・ウルスの地に大オルダ、クリミア、カザン、アストラハンがそれぞれ分離独立した。モンゴル側の動きと反比例してルーシ諸国に対するモスクワの覇権が確立されていき、従来のロシア側の記述によれば、イヴァン三世に至ってモンゴル支配からロシアを開放したとされがちであった。コンスタンティヌス11世のむすめソフィアと再婚してギリシア聖教の擁護者としての姿勢をとっているが、モンゴルの宗主権を認めざるを得なかった。こうした局面をくつがえしロシア帝国の基礎を築いたとされるのが、雷帝の名でも知られるイヴァン四世である。1533 年父のヴァシーリー三世の他界を受けて、わずか三歳でモスクワ大公となった彼は母エレーナの折衝の五年と貴族支配による混乱をへて、1547年16歳で史上始めてツァーリとして戴冠式をあげた。その五年後の1552年みずから大軍をひきいてカザン市を攻略し男は皆殺しにし女は俘虜とした。カザンの二の舞いをおそれたアストラハンが抵抗することなく降伏した。ロシア史を大きく旋回させることになったイヴァン四世自身が実はなんとモンゴルと深い関わりがあった。彼の母はかつてのジョチ・ウルスの有力者ママイの直系なのであった。しかも戴冠式の直後に結婚したアナスタシアが1560年にみまかり、二番目に娶った妻マリア・テムリュコヴナこそは、ジョチ家の王族の血脈であった。つまり母と妻、ともに錚々たるモンゴル名門の出身であり、イヴァン四世自身もいわば血の半分はモンゴルなのであった。そして、これをモンゴル側からみればイヴァン四世はその致死も含めて、まさに婿なのであった。1575 年イヴァン四世は突如として位を降り、シメオン・ベクブラトヴィチなる人物に譲位したのである。シオメンを全ルーシの大公と自分はただのモスクワ公と称した。このシメオン・ベクブラトヴィチとはカザンの皇子でいわばジョチ家の正裔たるサイン・ブラトのことである。イヴァン四世は、モンゴル嫡流のシメオンを名目的な君主としていただき、その権威のもとで実権者として辣腕を振るおうとしてのである。これはまさにティムールとその一門のやり方である。かたや政治史上でいけば、諸カン国のうち、クリミアを本拠とするクリム・カン国はロシア帝国と対抗する力をながらく保持し続けた。
 モンゴル世界帝国たる大元ウルスについては、これまでもある程度は述べられてきたこともあり、本書では正面から取り上げなかった。ここでは最低限だけふれる。第現ウルスは陸でつながれたモンゴル領域とアフロ・ユーラシアという二重の大地平にとって支えになった。ジャムチの名で総称される陸上の交通・運輸・伝達システムは第現ウルスなくしては機能しなかった。インド洋上ルートによる東西アジア・アフリカ・ヨーロッパにいたる結びつきは第現ウルスによる航海の組織化と旧南宋治下の興南を中心とする経済力・文化力を基軸とするものであった。その結果、銀を共通の価値基準とする人類史上ではじめての世界レヴェルの経済圏が出現する。資本主義というのならばモンゴル時代にこそ、その本格的な起点を考えるべきと筆者は述べる。また中華という視点では小さな中華から大きな中華への大転換をもたらした。大元ウルスの中華たる領域は三分の一にも満たなかったが人口のうえでは反対だった。唐と称する複合国家が消えてから370年ぶりに中華地域を再統合し、それを遥かに巨大化させた。多種族・多文化・多言語の一気に進み、首都たる大都=北京の位置も含めて、現在の中華人民共和国へ繋がっている。大元ウルスは1368年に中華本土を失い、1388年にクビライ家の帝系はトグス・テムル帝の死をもってひとまず終焉を迎える。その後遊牧民を主体とする大元ウルス以来の覚醒力が離合集散するが、全体としてみれば自分たちはなおイェケ・モンゴル・ウルスというゆるやかなくくりにあるという意識があったと指摘する。たとえば15世紀中頃に内陸アジア世界を統合したオイラト連合のエセンは自らを大元カアンと称した。
 16世紀末から17世紀の前半にかけてマンチュリアにヌルハチを盟主とするジュシェン族の連合体が抬頭した。第二代のホンタイジの際にモンゴル以来の古い勢力ホルチン部と政治提携し、うちモンゴリアの諸勢力を吸収していく。その際にチャナル部から大元ウルスより伝わる伝国の璽を譲られ、大元ウルスの王権と政治伝統はホンタイジに渡るとされ、クリルタイにてみずからの帝国をダイチン・グルン=大清国とした。乾隆帝の治世にライバルのジューン・ガル王国を倒しティベットを併合する。またホンタイジは同盟国でありモンゴル代表でもあったホルチン部の女性を后妃とし、チンギス家の婿となった。
 1492年のコロンブスの航海はクビライの巨大帝国への旅であったことは航海士の冒頭に書かれているが、クビライの帝国が消え去ってすでに100年が経っていた。モンゴルによる大統合が消え、ユーラシア東西の人と物の交流が途絶えたため、海の時代をヨーロッパに譲る結果となった。ロシアとジュシェン権力はランドパワーの最たるものであり、16世紀前半のオスマン帝国とハプスブルグ家もランドパワーに分類される。ポルトガル、スペインをへて、オランダ、フランス、イギリス、そしてアメリカの系統はシーパワーに分類される。

 終章「アフガニスタンからの眺望」では、、、2001年にアフガニスタンにアメリカが侵攻したが過去にはアレクサンドロス大王もチンギス・カンもイギリス、ソ連、アメリカも苦しんだ。アフガンは狭義ではパシュトゥーン人を指すが、アフガニスタンとパキスタンの国境にまたがる山岳地帯の民族であった。アフガニスタンでは南アジア、西アジア、中央アジアの三要素がここで交差し、山岳と渓谷のほかは乾燥が優位な地域であり、河川の緑やオアシスが沙漠に点在する。この土地には様々な人が往来したが、古くはアーリア人がやってきてインドに南下した。その後ハカーマニッシュ世界帝国の東域となり、ついでアレクサンドロス大王も到来した。ヒンドゥー・クシュの南北ではマケドニア東軍は苦戦を強いられた。ややあってクシャーン朝よりのちは北西インドからつづく仏の道となりべグラームの広大な都市遺跡、バーミヤーンに代表される仏教文化が栄えた。七世紀かの玄奘がバーミヤーンにて目にする黄金の東西大仏はヒンドゥー・クシュに浮かんだこの世の浄土世界であっただろう。また北から遊牧民のエフタル・突厥など次々と姿を現し、イスラーム東漸とともに、ガズナ朝・ゴール朝などのムスリム軍事力がこの地に拠り、インドへの南進の基礎ともなった。ホラズム・シャー王国の妥当五、チンギス・カン率いるモンゴル西征軍も、この地で苦しみ、インダス河までいたって北帰した。モンゴル帝国としてはフレグ・ウルスがおさえるホラーサーンと、クンドゥスを中心とするチャガタイ・ウルス南方領で棲み分けがなされた。一方チャガタイ軍はしきりとデリーとヒンドゥースターン平原を目指した。こうした形成は、ティムール帝国領として130余りをへて、その最後の君主バーブルが、一旦現在の首都のカーブルに小王国をつくったのち、結局ムガル帝国の形成としてインドへの転身をはかることで、一つの帰結点を見る。このように文明の十字路であるアフガニスタンでの国家の成立は古いものではなく国としてのまとまりや社内資本の蓄積・伝統、民族集団を超えた協業への忍耐力・結束力について、ゆるやかだった。その結果、バシュトゥーン族をはじめ、多くの人たちはいまなお、部族主義や個人単位の利益で動き、大国によるパワー・ゲームに巻き込まれ続ける。
 アフガニスタンという国は1747年にはじめて出現した。ドゥッラーニー系パシュトゥーン遊牧民のアフマド・シャーがカンダハールにてパシュトゥーン諸部族をとりまとめて王位についた。ダイチン・グルンに滅ぼされたジューン・ガルをもって、最後の遊牧権力といわれがちではあるものの、ドゥッラーニー帝国という名のアフガニスタン国家こそがその名に値する。ウズベク勢力へ攻勢をかけてホラーサーン、いわゆるホラーアーンを手中におさめ、さらにイランに兵を進め、東部の要衝マシュハドを手に入れる。北に転じてパキスタンのほぼ全域を取り込んだ。18世紀のなかばから後半にかけてかつてインド亜大陸のかなりの部分を統領していたムガル帝国にはもはや昔日の面影はなくなり分裂し、首都デリー周辺のみを保つ小王国に成り果てていた。イランも弱体化していて、こうした形勢の結果、アフガニスタンは一気に帝国化を成し遂げた。19世紀はイギリスはインド亜大陸を掌握した。アフガニスタンの北にはアム河を隔てて、ブラハ、ヒヴァ、コーカンドなどのイスラーム諸王国があったが、18世紀以降に帝国になったロシアが中央アジアに手を伸ばし、19世紀後半にはユーラシアの中央域は次第にロシアの手中におちていった。アフガニスタン王国は南のイギリス、北のロシアという超大国に挟まれ、苦難の時代を迎える。南下をはかるランド・パワーのロシアに対し、インド亜大陸という金ぐらを守ろうとするシー・パワーのイギリスはアフガニスタンに鑑賞し、あわせて三度のアフガン戦争がおきることになる。1838年から42年の第一次アフガン戦争には1万を超えるイギリス侵攻軍をアフガン遊牧軍が全滅させるほどであった。19世紀にあっても展開力と攻撃力にとむ遊牧騎馬軍団は近代武装の歩兵軍と十二分に対抗できた。1878年から80年の第二次でもイギリス側の損害はすくなくなかったがイギリスの保護国となっていく。さらに第一次大戦のイギリスの弱りをついて、アフガン軍が逆にインドへ侵攻し、この第三次アフガン戦争にて独立を回復することになる。その後アフガニスタンを支援するソ連、パキスタンを後援するアメリカという図式のなかで、アフガニスタンの政治はゆれつづけ、1973年にはクーデターで国王ザーヒルはイタリアに亡命し、王政は廃止された。その後はソ連のより強い影響化で政権変動があいつぎ、国内情勢は不安定化し、1979年12月にソ連が武力でカーブルをおさえることになる。この年の2月に起きたイラン・イスラーム革命が同じイラン文化圏のアフガニスタンに波及し、さらにアム川以北のソ連領のイスラーム地域に及ぶことを恐れたのが原因である。そして10年にわたるソ連の苦戦と89年の完全撤退、91年のソ連の崩壊、96年からのターリバーンの抬頭、2001年の同時多発テロからの米によるアフガニスタン作戦。国際パワー・ゲームの舞台になっているアフガニスタンの宿命の歴史構図は自身では到底定めがたい。現在のアフガニスタンを構成する人々のおよそ半分のパシュトゥーン族は濃く行きの南半分に傾き、北側半分にはタジク族、ウズベク属、トゥルクメン族、ボンゴル帝国の派遣軍の子孫であるハザーラ族など居住いs,ほかにヌーリスタン族やヒンドゥー教徒、シク教徒もいる多民族国家である。もしアフガニスタンに石油が算出していたら国際政局を自在に操る存在であったかもしれないと筆者は想像する。アフガニスタン復興はユーラシアの安定化への大きな鍵の一つで、わたしたちにとっても努力を払うべき世界的な課題である。
 パシュトゥーン族にはジルガという長老たちの会議があるが、モンゴル時代に由来している。そのようなモンゴルの遺産について語り、ティムール帝がペルシア語でなのったパードシャー=帝王について解説する。日本にとってのモンゴルはモンゴル襲来にあるが、それが外圧に抗する小さな島国・日本という図式を時代を超えて多くの人に刷り込ませて、アメリカと日本などを対峙させる二元論が思考の鋳型になっていると筆者は語る。モンゴル軍と日本の戦力などの分析はほとんどなされていない。艦隊行動や上陸戦の難しさなどは議論されず、神国日本やカミカゼといった考えは不幸なリアクションとする。またモンゴルの後半期には大陸と日本列島で人と物そして心の大交流が発展する。韓半島もかかわり、日中韓をこえた文化・学術・思想・宗教・芸術・美術・生活様式の新局面が生ずる。日本文化の基層となるものはこの前後に導入されており、ユーラシアの波も日本に及んでいた。肝心なことは茶道や能もまるかにちがうあり方で日本化していっており、日本の風土・伝統のなかでほとんど別のものに昇華していった。
 日本とカフが二スタンとの距離は実際のへだたり以上に遠いところにある。アメリカとはアフガニスタンの1.5倍以上の距離があるが近く感じる。アフガニスタンは1747年に王国となったが、1776年に独立したアメリカとの違いは凄まじい。アメリカはアフガン・イラクに侵攻したが、直接のきっかけは1979年のイラン・イスラーム革命とそれに脅威を感じたソ連のカーブル制圧にある。アメリカのみならず、それに先行する英仏による帝国的展開と植民地支配の歩みも、けっして「歴史の記憶」になりはてておらず、今も現代史や現代と負の遺産として生き続けている。英仏がかつて帝国として振る舞ったときのツケの支払いを旧植民地側から時を超えて求められ続けることだろう。歴史は過去の物語でない。私達がいきている今にむすびつく長い人類の歩みの道のりである。「いま」を理解するにはきちんとした歴史を総合的にしるほかはない。すなわち、よりよく「いま」を生きるために歴史は不可欠である。「帝国」なるものは今もユーラシアにいきていて、パワーゲームも依然として存在する。ところが現存する帝国が瓦解するならばその反動も恐ろしい。わたしたちの「この時代」いぜんとして一つの通過点にすぎない。世界の枠組みはすでに定まっていない。

気になった点

 集史のテュルクの起源として預言者ノアが出てくるのが興味深かった。その時代で説得力があった物語がノアの物語だったのかと、少し不思議な気がする。
 地図の分析のあたりで14世紀末以降の東西の衰退で、それが蘇ったのはソ連解体後の最近というのは興味深かった。長いユーラシアの道に平和が訪れるのは非常に難しいことなのだと痛感した。
 モンゴル軍もアフガニスタン作戦はうまく行かず見切りをつけたというのは印象的で、その後も常に失敗している印象で終章でも語られているがアフガニスタンという土地の特殊性もあるのかもしれない。
 モンゴルの歴史書の集史はカザンが作り始めたがイスラーム的な考え方でないと歴史書を作るという発想にならないのか、モンゴルでは口述による伝承が重視されたのか、とにかく何か考えさせられるものがある。
 モンゴル側からフランスとの連絡をとっていたというのは興味深いし、サウマーの使節団の下りはかなり楽しく読んだ。当時のヨーロッパは大したことがなかったのだろうなぁと何となく分かる。

最後に

 モンゴル帝国とユーラシアの理解はヨーロッパや中華の歴史がハイライトされるなかで特に注意して勉強しなければならないものだと理解できた。そしてこの流れはロシアなどのランドパワーに繋がっていて、現代にも影響を与えているということもよく理解できた。
 モンゴル帝国の特に西側やそこから現代につながる歴史を勉強したい人にはうってつけで、より深い理解を得られることは間違いなく、おすすめです!

シルクロードと唐帝国 (興亡の世界史 05)

講談社 2007 森安 孝夫

 中央アジアをもっと学びたいと手に取った本。序章から作者の思いが爆発する。何か上品な他人事な本よりもこういう本の方が面白い。非常におもしろかった。

本の構成

 序章「本当の自虐史観とはなにか?」では日本人の西洋コンプレックスやそれに対する歴史的な事実。歴史を学ぶ理由。人種や民族、国民について、言語族についても批判的に解説し、作者が考える”自虐史観”とは何かということと、それに対してこの本に込めた作者の熱い想いのたけを詰め込む。

 第一章「シルクロードと世界史」ではまずは地形を見ていき、歴史の中で遊牧民を位置付ける。中央ユーラシアが草原ベルト・砂漠ベルト・半草原半砂漠ベルトと三層構造となっていて、また縦に見ると天山山脈などの海抜2000~3000メートルの盆地は草原になっていて高度を上げると草木がなくなりそらに上は万年雪に覆われる。高度を下げると山肌が見えて更に下には砂漠が広がる。パインプラク高原は東西に250キロ以上、南北に百数十キロの大草原である。そしてこれらの草原や砂漠を通ったシルクロードは東西や南の文明を繋ぐ役割をになったと同時に騎馬遊牧民を生み出した。農業は世界各地で発明されたが騎馬遊牧民はユーラシアにしか現れなかった。また中央ユーラシアの西側のコーカサス地方にインド=ヨーロッパ語族の発祥の地があり、東部のモンゴリアにアルタイ語族の発祥の地があるようにこの草原地帯の歴史的な重要性を物語る。唐帝国の中心は中国本土であるが本書では華北の北方はゴビ砂漠以北をモンゴリア、ゴビ砂漠以南を内モンゴルと区別し、北中国の西方の西域または中央アジアの定義を整理する。もともとは内モンゴルの南にも広々とした草原地帯があり、匈奴を始めとする様々な牧畜民が活躍した。この草原地帯は研究者により重視され様々な名称で呼ばれているが筆者は農業と遊牧が交雑する地域として農業接壌地帯と呼ぶ。農耕都市民と遊牧民がこの地帯で北に南にせめぎ合っていたが唐朝では両者が一体化した最初の王朝であった。
 シルクロードは19世紀にドイツ人の地理学者によって作り出された言葉だが20世紀前半までは絹交易に関する文書が発見されるのがオアシス地帯に限られていたので「オアシスの道」を意味したが、我が国の東西交渉史学が発展をとげ、中央ユーラシアを貫く「草原の道」と東南アジアを経由する「海洋の道」とを含むようになっていく。本書でシルクロードは「オアシスの道」と「草原の道」合わせた「陸のシルクロード」とする。このシルクロードとは線ではなく面である。またどこを通っても良い草原地帯では道があるわけでもない。さらにシルクロードとは東西交易路だとごかいされてしまうこともあるが、南北にも伸びていて多くの支線が網目状になり大小の都市が網の結び目になっている。また絹以外にも金銀器・ガラスなど世界中の特産品が運ばれたが、多数の結び目を持つネットワークであったので中継する方式が一般的であった。また前漢の武帝時代の張騫がシルクロードの開拓者というのも誤解であり一人ですでにあったルートを遠くまで旅しただけである。大航海時代以降のグローバル世界史であり「海洋の時代」には重くてかさばる食料や原材料の大量輸送が可能になったが、アフロ=ユーラシア世界で完結していたユーラシア世界史の時代では軽くて貴重な商品、すなわち奢侈品や嗜好品の中〜長距離輸送が主流だった。これらはアラム商人・インド商人・バクトリア商人・ソグド商人・ペルシア商人・アラブ商人・シリア商人・ユダヤ商人・アルメニア商人・ウイグル商人・回回商人などによって行われていたことが知られている。これらの商人は金銭財物を喜捨して伝播した様々な宗教の活動を支えた。貿易の記録が後世に残ることはまれであるが、建築遺構や高価な顔料を使う壁画などには流通経済による繁栄が残る。先に列挙したシルクロード商人のうち紀元一千年紀を通じて最も活躍したのはソグド商人である。主要な拠点であるソグディアナの諸都市の遺跡では一般のためものからでさえ次々と壁画が発見されている。都市遺跡のペンジケントでは貴族や大聖人の邸宅などの建物では主要な部屋が豪華な壁画によって飾られていたことに驚かされる。このソグディアナは大帝国の中心となったことはなく穀倉地帯でもなく、国際貿易のみで栄えていた。ペンジケントはソグディアナの中のオアシス都市でも大きい方ではないにもかかわらず、豪華な壁画が見つかる。
 筆者は東西交易を軽視する反シルクロード史観を否定する。大航海以前にはシルクロードの東西交易は経済的にも文化的にも重要だった。最後に時代区分については世界史の8段階を提唱している。農業革命、四大文明、鉄器革命、遊牧民の登場、中央ユーラシア型国家優勢、火薬と海路、産業革命と鉄道、自動車と航空基地の8段階である。

 第二章「ソグド人の登場」ではソグド研究史から始まる。日本では明治末期から日本人による研究が進み1924年の「栗特国考」が初期の代表作である。20世紀に華々しい成果を挙げたソグド研究は21世紀には地位が危うくなる。中国の研究者の台頭である。その後フランスでも最新情報を含む書籍が発行され、英訳もされたため、日本での研究結果を欠いた本社が欧米の研究の基礎になることを憂いている。
 ソグディアナはソグド人の土地の意であり、ユーラシア大陸の真ん中に位置するソグド人の故郷である。アム河とシル河なら挟まれたマーワラーアンナフルやトランスオクシアナと呼ばれた土地の一大中心がソグディアナで、鉄器の使用が普及した紀元前6〜前5世紀ごろが灌漑網が整備されて、農業を基本とするオアシス都市国家が栄えた土地である。ソグディアナはほとんどウズベキスタンに属しているが東の一部はタジキスタン国領になっている。ここにはサマルカンドをはじめ多数の都市国家があるが豊かな土地で前6〜前5世紀に発展し、5〜6世紀に大発展期を迎える。人口増加に対してオアシス農業には限界があったので交易に従事する者が出てきたと分析する。そしてこの地は東の中国、東南のインド、西南のペルシア・地中海地域、西北のロシア・東ヨーロッパ、東北のセミレチエ〜ジュンガリア〜モンゴリアへと通じる天然の交通路たるシルクロードに続いてたので、ソグド人は国際的なシルクロード商人に発展し、広い範囲にコロニーを築いた。
 ソグド人はコーカソイドであり白皙、緑や青い目、深目、高鼻などの身体的な特徴を持つ。ソグド語は今は滅びたが中世イラン語の東方言であった。紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシアのキュロス二世の制服を受けて、アラム語がアラム文字で書かれるようになりアケメネス朝滅亡後にアラム文字でソグド語が書かれるようになり、さらにアラム文字が草書化しソグド文字となった。ソグド文字は突厥・ウイグルに伝播して、ウイグル文字やモンゴル文字へ、そして満州文字になった。ソグディアナはアレクサンドロスの遠征の東の最終地点になり、セレウコス朝シリア、バクトリア王国の領域に含まれるが、その後は8世紀前半にウマイヤ朝の支配を受けるまではほぼ独立を保っていた。その後はイスラム帝国の支配を受けゾロアスター教からイスラム教、ソグド語もペルシア語に変わっていく。9世紀終わりのサーマーン朝はペルシア人王朝でありアラビア文字ペルシア語が主流となり現在のタジク語に繋がっていく。10世紀後半からは草原からトルコ人王朝が支配を強めてきてトルコ語が優勢となる。
 ソグド人が商業をしている記録は漢文史料やイスラム資料にあり、商いを良しとすることや紙を生産している記述がある。またソグド語の古代書簡は312~4年くらいの5通の手紙がみつかっているが、中国国内からサマルカンドの親族に当てたものであり、中国の政治的な動きや中国内のサマルカンド人などの言及がある。これにより匈奴がフンと呼ばれていたことが確証された。また郵便制度があったこともわかる。また敦煌の遺跡のミイラが履いていた紙の靴から偶然見つかった書簡は商業税に関するものであり、課税や取引の実態を示していて登場する象がんの多くがソグド人でありソグド人商人の存在感を表している。社会構成としては自由人と非自由人が別れていて、商人の地位が高く聖職者が重視されていない。男女とも財産を渡せば離婚できるなど女性の地位は比較的高かった。私兵として奴隷の軍人がいたことがうかがえる。
 漢文史料の中で商胡など胡と付けばイラン系商人や西域商人とみなしてよいとされてきたが、本書ではこれらの多くはソグド商人であるという説を打ち出す。特に唐代では興生胡や興胡とあれば100%、それ以外でも十中八九をソグド商人と見て良いとする。ただし後漢から魏晋南北朝時代ではそうではない。またサマルカンドなら康国というよに、漢文書の行政上の必要からソグド人は出身国によって姓を持たされていて、安・米・史・何・曹・石などであり、ソグド姓と呼ぶ。東方に発展したソグド人商人の足跡は四世紀前半には中国に及んでいることは明白だが、古くは後漢から三国魏の時代まで遡ることは疑いがない。河西地方だけでなく長安・洛陽や四川でも活躍した足跡を見る。ソグド人が残した遺跡や墓地、碑文や岩壁銘文からその集団での居住跡をたどると、同郷の仲間や家族、親族を各地に配置しネットワークを構成していた様子が見えてくる。
 ソグド人の軍事面は積極的だったという説が最近に定着しつつある。三国志にも支富が月氏を康植が康国の軍団を率いて参画した記述がある。彼らは西域商人のリーダーであるばかりでなく軍団長になりうる人物だったのかもしれない。また初唐のソグド人の墓では被葬者は大夏月氏人也と書かれたので月氏も広義のソグド人に含まれていた可能性がある。また外構ネットワークにも寄与したことがわかっており、安吐根という人物は柔然や北魏の実力者と通じ、東魏と柔然の政略結婚に尽力し、さらに北斉で高位高官まで上り詰めた。また酒泉胡は西魏の公式使節団の長として突厥を訪れた。また虞弘墓から発掘された墓誌によると父は柔然の官職で北魏に来た経歴があり、虞弘も柔然の官職でペルシアや吐谷渾国を訪れてその後北斉に派遣されたときに関係悪化から勾留され北斉・北周・隋に仕える。彼もソグド人だったと推測される。また当時ソグド語は国際語であり、突厥のモニュメントにもソグド語で記されていて公用語だっただけではなく、突厥の政治・経済・外交の顧問としてソグド人が使えていたことが判明している。ソグド人にとって重要な地域は河西地方だが重要な都市としては敦煌が挙げられるが涼州は河西最大の都市として玄奘の伝記にも挙げられている。439年には河西地方を支配していた北涼は北魏に整復されて、ソグド人も奴隷の身分になったとされるが、ソグド王は奴隷の身分からの解放に尽力したと予想している。東方に向かったソグド人は北魏〜隋では薩宝という官称のリーダーに率いされていたことがわかっており、これはソグド語のサルトパウに由来する言葉でキャラバンのリーダーという意味だがこれが転化したものだと判明している。唐の建国に多大に尽力した安興貴の祖父も涼州薩宝だったことが知られている。隋末617年に三万の兵を率いて太原を出た李淵は長安城に入り618年に唐朝を創業し武徳と改元した。そのころ涼州薩宝の家系に生また安修仁は他の漢人胡人と涼州に李軌政権を擁立した。兄の安興貴は唐に使えていたが李軌を唐朝に帰属させるために涼州に戻り説得したがうまく行かず胡人集団を率いてクーデターを起こし李軌を捕らえ、武徳二年に河西地方を唐に献上した。この安一族は最初から両者を天秤にかけて一族の安全保証を計っていたと見られる。最近この安修仁の墓碑銘が見つかり隋朝の武官として涼州在住の胡人集団を統率して、李軌政権を傀儡とできた背景にはこのソグド人軍団がいたことを指摘した。この新説は隋王朝に五胡以外のソグド人が府兵制の一部を担っていたという新事実を明らかにしている点で意義深い。安興貴の息子の安元寿は李世民のそばで秦に仕え、元武門の変の際にはソグド人兵力を動員したこともわかっているがその後官職を辞し涼州で家業の東西貿易や馬の生産を継いだと考えられる。このように馬を生産し馬とラクダを機動力にした東西貿易に従事する一方で騎馬を中心とする武装集団として発展し、さらにトルコ系や漢人軍閥へも軍事力を提供して政治にも関与していたと読み解ける。

 第三章「唐の建国と突厥の興亡」では、、まず唐までも当時の異民族の王朝として拓跋国家と呼ばれ、中国国内でも同じような認識である。また現在の中国内の少数民族の定義の中に匈奴、鮮卑、柔然、突厥などは含まれていないが、それは魏〜唐までの間にこれらの民族が漢民族に融合したからである。唐の国際性・開放性はこのような異民族との血と文化の融合によって生み出されている。突厥やソグドなどの異民族たちも漢語を話した。この唐帝国の創建を担ったのは北魏の武川鎮に由来する鮮卑系集団であることが定説である。この武川鎮は北魏が配置した辺境軍鎮六鎮の一つである。孝文帝が洛陽に遷都すると六鎮の将兵への待遇が悪化して不満が六鎮の乱となった。そして混乱によって北魏は東魏と西魏に分裂し、西魏に入った武川鎮出身の少数派は在地豪族と手を組み胡漢融合集団を形成し、それを基板にして北周の宇文氏、隋の楊氏、唐の李氏が相次いで政権の座についた。隋の煬帝が三度の高句麗遠征に失敗すると、煬帝と同じ胡漢融合集団出身の李淵が617年に挙兵して長安を目指した。618年に煬帝の孫の楊侑が殺させると李淵は初代皇帝・高祖となった。そこから5年かけて各地の群雄が平定されて国内が統一させる。また霊州・夏州を擁するオルドスは重要な地でありオルドスを支配していた匈奴系の集団が李淵を支援したと考えられている。唐の最大のライバルは突厥第一帝国であったが、北斉・北周の時代はほぼ属国で貢物をしたり血縁関係を結んで何とか耐え忍んでいた。しかし隋の時代になると突厥を東西に分断させることに成功し、北の突厥が南の分裂中華を操っていた時代を逆転させ、北中国を再統一した隋が分立した突厥を操るようになる。東突厥の突利可汗は懐柔策に乗せられて漠南に移って自立し隋本土を転々とするが最終的には隋の後押しで東突厥可汗として返り咲いた。しかし突厥第一帝国の第十二代可干の始畢になると周辺の王国を臣下において勢いも増してきた。中華では反乱が相次ぎ分裂状態になったが群雄は突厥には服従し可汗の称号をもらっており、突厥が中華を上回っていた。また西突厥も隋の影響を脱して勢いを回復してきており、中央アジアを制圧してくる。またかつて突厥に嫁いだ義城公主が隋の末裔を呼び寄せて隋の亡命政権を漠南においた。漢文資料には唐を興す李淵は突厥の大可汗の臣下だったとは書かれていないが、あとから消されたと推測される。ソグドは李淵への帰属を決断し唐を軍事的にも支えたので、その反映が約束された。
 建国直後の唐は各地の群雄を制圧していったが活躍したのは次男の李世民であった。李世民はクーデターを起こし最終的には大宗という最高指導者になる。突厥分離政策で唐への投降を促し東突厥を弱体化させ隋の亡命政権も撃破する。こうして建国から10年を経た630年に国内の群雄や隋の亡命政権、東突厥を制圧し統一を果たす。唐に投降した旧東突厥人の扱いで意見が別れたが、オルドス長城地帯の農牧接壌地帯に遊牧民として集住させた。ところが639年に反乱を起こしたので、故郷の内モンゴル草原地帯に帰した。
 唐の太宗は草原遊牧地帯の族長たちから天可汗と称されていた事実を捉えて、これは農耕中国では皇帝として草原地帯では大可汗として世界帝国になったという解説も見られる。しかし古代トルコ語資料ではタブガチという拓跋から訛ったと思われる名称で認知されていたので、北魏以来の拓跋国家の天子はトルコ=モンゴル系遊牧世界から見れば唐の太宗は北方の拓跋国家の血を正当に引いているので、天可汗と呼ばれることは自然なことだった。筆者は太宗とその皇后の墓である昭陵に団長として調査にあたった。山陵の中腹にある外国人の石像が遊牧国家やオアシス国家のリーダーであることを解説し、遊牧世界からの認識を裏付ける。646年太宗は薛延陀を打倒し鉄勒諸部を内属させた。そして緩やかな支配地域である羈縻(きび)府羈縻州をおいて支配し、馬や食料を備えた郵駅をおいて使者の往来の便を確保した。一方で西方に目を向けると東トルキスタンにはオアシス国家と、ハミ地方にはソグド人やゼンゼンの植民都市が形成されておりインド=ヨーロッパ系言語の住民が占めていた。それらの諸国はすべてトルコ族の間接支配をうけていた。唐が東突厥を滅ぼすと西域情勢は唐に傾き、ソグド人国家も唐に来降した。648年に安西四鎮を設置してトルコ勢力排除を完了した。天山以北に西突厥がいたが617年頃に即位した統葉護可汗の時に大発展した。玄奘に安全保障を与えたのはこの人物である。西突厥は一旦は唐に属したが太宗の死去の651年にトルコ系所属が統合して唐に反旗を翻し、唐支配が瓦解した。しかし唐は討伐軍を派遣し6年かけて西突厥を敗北させた。この戦勝に功績のあった西突厥王族を可汗として冊立し、太宗時代以上に西域支配を安定させた。7世紀後半以降は北上してきたチベット帝国の勢力も加わり、唐とチベット、トルコ所属が三すくみになって争っていく。筆者は唐の太宗までが遊牧国家に似た武力国家であり唐が世界帝国であった時期とする。

 第四章「唐代文化の西域趣味」では胡姫を中心とした文化について説明する。唐代は胡風・胡俗が大流行した時代であり、それゆえに国際的であったとされる。胡服・胡帽だけでなく、胡食・胡楽・胡粧さえも歓迎された。ここで言われる「胡」は前漢までは匈奴を指し、五胡十六国時代では匈奴・鮮卑・ 羯 ・ 氐 ・ 羌の遊牧民を指し、後漢時代からはソグド人を始めとする西域人を含むようになり、隋唐時代にはオアシス都市の人々を指すのが優勢になる。場合によっては突厥・ウイグルを指すこともある。次に胡を含む言葉を取り上げる。胡桃や胡瓜、胡麻に加えて、胡椒、胡食、胡服について分析する。胡姫と呼ばれるダンサーに金持ちが通う様を唄った詩を取り上げる。胡姫は従来ではペルシア系の女性と思われていたが、ソグド人の墓から胡姫をモチーフにした石製葬具が発掘されており、ソグド人であると変わってきている。この胡姫が踊ったとされる小さな円の絨毯の上で回りながら踊る胡旋舞や跳躍する胡騰舞の様子や詩を紹介し、これらの胡姫たちのパトロンであった貴族や玄宗が作った梨園などの国家的な機関の説明が続く。

 第五章「奴隷売買文章を読む」では、、筆者がウルムチの博物館で女奴隷売買契約文章を見つけたところから始まり、様々な困難を乗り越え1989年の出版に至り、その後様々なところで参照される文章となった。内容は売主はサマルカンドのソグド人、買主は漢人の仏教僧侶、トルキスタン生まれの女奴隷をいくらで買うというものである。それより100年以上前の漢語で書かれた契約書もあるが、それらもソグド人が売主である。ソグド語の文章の中には「彼女を好きなように打ったり、酷使したり、縛ったり、売り飛ばしたり、人質としたり、贈り物として与えるなり、何でもしたいようにしてよい」という文があるが、同じ時期のバクトリア語の契約書の中にも似たような文章があることが発見された。
 ここから奴隷の説明が始まるが、基本的には奴隷は主人の所有物であったが以前は精密機械であり、生産奴隷、家内奴隷、軍事奴隷に分類される。国によるが男性の場合には主人の部下や代理人として重要な地位を占めるものもいたり、女性は貴族や富豪の家内奴隷の場合には主人の性交渉もさせられる悲惨さはあるが一般の女性よりも裕福な暮らしをしたものもいた。後漢時代でも賄賂として馬や奴隷が使われていたことや、胡姫などは私奴隷であったと筆者は推測する。唐代の人民の身分は戸籍を持つ良民と持たない賎民に別れていた。さらに賎民は上層と下層があり、下層は官と私に別れていた。官賎民は犯罪者や戦争の捕虜などであり、私賎民は奴婢であった。良民の売買は禁止されていたが実際にはあり、賎民を良民として放つことは善行とされていたり自身で蓄財して良民となることもあり、唐代の良賎の身分は固定的なものではなかった。
 また奴隷市場の存在を示すトゥルファン出土の漢文文書や敦煌文章でも人身売買が行われた例がある。良馬は現代の高級車に匹敵するが、そのくらいの値段で現在の精巧なロボットとも言える奴隷が売買された。それらは口馬行と呼ばれる店舗で売買され、口とは奴隷のことであった。唐前半の安定期では普通の普通の馬<普通の奴隷<名馬<高級奴隷のような値づけだったという研究がある。馬を持つことができるのは王侯・貴族・官僚・富豪などに限られていて、突厥馬などの外来馬は今で言えば高級外車とも言える。一般庶民はロバを使っており国内馬にも手が届かなかった。
 唐代の胡姫・胡児の売買は遠距離間で行われたので近代アメリカの奴隷貿易のケースに似ている。ソグド人が唐帝国内を奴婢を連れて旅行していたことは兼ねてから指摘されていて、これらは商品であった可能性がでてきている。また大量のソグド姓を持つ奴婢が一つの家で同居生活したような資料もあり、奴婢の寄宿舎のようなものであったと考えられている。シルクロードでは絹馬交易だけでなく絹奴交易も行われていたと説を紹介している。

 第6章「突厥の復興」では、、、、630年に滅ぼされた東突厥は679年に旧東突厥の王族を擁立し復興のために反乱を起こした。周辺の突厥集団も呼応し一時は唐を圧倒するが唐は30万の勢力を投入し翌年に鎮圧された。また同じ年にソグド系突厥集団は六胡州に置かれる。旧東突厥は翌年また反乱を起こし鎮圧されるも682年の反乱は成功しイルテリシュをリーダーに東突厥第二帝国を復興させる。一方でソグド集団は721~722年に反乱を起こすが失敗し独立できなかった。突厥第二帝国は漠南の山陰山脈地方に本拠地を置いたが、漠北にも勢力を拡大し、漠北に勢力を移した。この突厥復興に大きく寄与した第二のリーダーであるトニュククは突厥として初めて碑文を残す。碑文によるとイルテリシュとトニュククが蜂起した勢力はわずか700人で2/3が騎馬、残りは徒歩だった。こうして唐の羈縻支配体制は崩壊するが突厥にとっては630年以降の50年間のタブガチという異民族による支配は屈辱の時代として記憶される。次のカプガン可汗が即位して中国の武州革命の時期で則天武后に対して中国侵略と和睦を繰り返した。696年には中国に残っていた突厥降戸の変換と単干都府の割譲と、その地での農耕のための種子と農具を要求し、則天武后は憤激したものの6州と農具を与えた。またカプガン可汗は中国に婚姻を求めたのに対し、則天武后は自分の一族を派遣して彼にアプガン可汗の娘を娶らせようとしたが、アプガン可汗は唐の王族の李氏ではないと激怒し、華北各地に入寇させて大量の漢人男女を略奪した。これは内モンゴルの可耕地に従事させるためだと思われている。706年以降では突厥は北方・西方経営に忙殺され、南方の漠南に隙が出て唐の張仁愿が黄河大屈曲部に受降城をもうけると形勢が逆転した。一方の突厥は西方にいる旧西突厥系や他のトルコ系の部族や唐支配下の東部天山北麓への遠征など兵を出し、国家は拡大していた。アプガン可汗の次に即位したビルゲ可汗は南の唐とは宥和政策をとり東西に勢力をふりむけ、唐とトルコ族が南北を分け合い、草原の道の支配権はトルコ族に戻る。この頃のソグド人資料はあまりない。そこで唐の玄宗期に大反乱を起こした安禄山の生い立ちに関する資料にあたると、716年にカプガン可汗がなくなると多数の突厥人・ソグド人・ソグド系突厥人が党に亡命してきたことがわかり、その中に安禄山やその養父がいたことがわかる。また安一族の中で唐に使える胡将軍がいたことが注目される。701年には突厥軍がオルドスに進軍し六胡州を経略したことからソグド人・ソグド系突厥人が唐から突厥に移動したとみられる。
 ここで25歳で夭折した突厥可汗の王女の墓碑銘を紹介する。カプガン可汗の死後、その娘は唐に亡命した。唐はビルゲ可汗を包囲攻撃しようとするが失敗して敗退する。そしてビルゲ可汗は唐に公主降嫁を求めてきたが唐側は選定に苦慮し、後宮にいるカプガン可汗の娘を唐の公主にしたてた。しかし嫁入り準備をしていたが何の前触れもなく死去してしまう。筆者は王女が自分の父を殺した一家の宿敵に嫁ぐことを憂いで自殺したのではと想像する。

 第7章「ウイグルの登場と安史の乱」では、、、ビルゲ可汗の没後、突厥第二帝国は急速に衰える。742年にはバスミル・カルルク・ウイグルの三者連合がユーラシアの東半分の覇者であった。744年にはバスミルを撃破し、745年にはウイグルが漠北を100年間を支配する。シネウス碑文によればセレンゲ河畔にソグド人と漢人を駆使してバイバリク城を築いたとある。古代ウイグルが果たした歴史的役割は安史の乱の鎮圧し唐を延命させたこととマニ教の国教化だ。家畜の解体を常とする放牧民族が殺生を戒めるマニ教に改宗したかは謎である。またソグド人商人はウイグルと結びついて絹馬交易を行なっていたが、状況を考えるとソグド人とマニ教が結びついていた影がみられる。牟羽可汗は強い抵抗を押し切って改宗を進めたが、ソグドネットワークの利用という経済的・政治的な理由があったように思われ、779年にクーデターによって殺される。第七代懐信可汗のときにマニ教を名実ともに国境にしマニ教徒ソグド人を優遇した。
 安史の乱の安禄山は10代で突厥から亡命し、山西地方の安貞節の元に腰を落ち着け、六種類の弦を操り、国際商業市場の仲介者になり、軍事にも通じて武人としても成長していった。張守珪に抜擢され契丹・奚討伐で活躍したことで彼の養子となり武人として出世して玄宗や楊貴妃の恩寵を受ける。755年安禄山は玄宗の側近にある奸臣楊国忠を除くことを目的として兵を挙げる。親衛隊8000騎を中心として10万から15万の大軍を率いて河北地方を南に降り洛陽を陥れた。756年玄宗は蜀(四川)に、皇太子は郭子儀の本拠地であった霊武へ向かい粛宗として即位する。粛宗はウイグルに支援を求めるためにモンゴリアに敦煌群王承寀やトルコ系・ソグド系の武人を派遣する。オルホン河畔にある首都オルドバリ区で会見が実現すると第二可汗である磨延啜 は喜んで承寀に自分の妹を娶らせる。安史勢力は突厥・同羅・僕骨車5000騎を率い、長安より北方へ進軍し、唐の支配下で河曲にいた九姓府・六胡州らの勢力数万と合流し、粛宗のいる霊武を襲わんとした。郭子儀は、可汗の磨延啜自身が率いてきたウイグル本軍を陰山から黄河流域への出口に当たる呼延谷出迎え、これと合流して安史勢力を退け、河曲を平定した。757年に安禄山は実子の安慶緒や部下によって暗殺された。安禄山の盟友である史思明は独立分離し范陽(北京)に帰還した。粛宗は鳳翔まで南進しさらに派遣された葉護に率いられたウイグル軍を加え15万に膨れ上がり、広平王を総帥とし鳳翔を出発した。唐の郭子儀軍やウイグル軍によって都市を奪還しついに洛陽まで奪回した。粛宗は葉護を労い司空の位を与え、金銀器皿を下賜し、毎年絹二万匹を支給することを約束した。758年ウイングルの使者一行が長安に来て、公主降嫁を要求した。粛宗は幼少であった実の王女を寧國公主に封じて降嫁させた。759年史思明は安慶緒を殺し大燕皇帝として即位する。同年ウイグルの磨延啜可汗が急逝すると、長男葉護は罪で殺されていたので、末子の移地健が第三可汗として即位する。史思明は洛陽に入城し、再び東西対立する政権が誕生した。しかし史思明は長男の史朝義に変わって妾腹の子・史朝清を溺愛し貢献者にしようとしたため長男の史朝義の部下が史思明を捉えて幽閉し、761年には史朝義が即位した。762年に玄宗が死去した10日後に粛宗が崩御し代宗が即位する。ウイグルの牟羽可汗は唐の君主の崩御に乗じて10万の兵を率いて南進する。同じ頃、代宗は史朝義を打倒するためにウイグル軍を要請する使者・劉清潭を派遣していた。劉清潭はゴビ砂漠に入る前に牟羽可汗と遭遇し、思いとどまるように説得するもうまくいかず、妻の実夫である僕固懐恩が説得し再び当側に着く。ウイグル軍と僕固懐恩の軍が共に戦い、ついに洛陽を奪還する。763年に追い詰められた史朝義は自殺し、安史の乱が落ち着く。牟羽可汗はそのままモンゴリアに戻る。これらの経緯はオルホン河畔に残されたカラバルガスン碑文に断片的に残されている。この碑文はウイグル語・ソグド語・漢文で書かれており、シルクロード東部でのソグド語の重要性を示している。この碑文では牟羽可汗の方が磨延啜より大きく取り上げているが、それはマニ教との関わりが深かったからだと分析する。
 安史の乱は唐帝国に大きな影響を及ぼし、安史の乱の前は自力で軍事力を調達する武力国家であったが、安史の乱の後では経済力で平和を維持する国家になったという研究もある。筆者は安史の乱を10世紀の中央ユーラシア型国家優勢時代の先駆けとなった現象と捉え、安史の乱の時代にはまだ安定的な征服王朝が構築される要素である文字などが整備されていなかったことを安史王朝が維持できなかった理由として挙げている。

 第八章「ソグド=ネットワークの変質」では、、唐の初期までのソグド人と、太宗高宗時代のソグド人では中国での扱いが変わってきているという研究がある。かつては中国内に大人数で住もうとも外国人であったが、唐がソグディアナを羈縻支配し外国人ではなく興胡という地位を与えた。これにより道途でさまざまな公的なサービスを受けることができた。牟羽可汗とソグド人の分析が続く。
 次に、五人のホル人の報告を書き写したという敦煌出土のペリオ=チベット語文章1283番の更新版の全訳とその分析が続く。中に出てくる安禄山に見出された張忠志は762年に支配下にあった五州をもって唐に帰順した。唐の後半は張忠志のような節度使に半独立国家に割拠されるようになる。このホル人の報告はシルクロード東部から唐本土を除いた全地域になり、ホル王国・ホル人の情報網の広がりが分かる。そして筆者はこのホル人とはソグド人であるとしている。
 シルクロードではソグド人が高額貨幣として金銀に加えて絹織物が使われていたことが漢文文書から明らかになっている。780年になると納税には銅銭が使われていたものの、遠距離を運ぶ必要がある場合には軽貨と呼ばれていた絹織物が使われていた。絹馬交易の研究では突厥・ウイグルにとって絹織物が重要なものであったとされている。この絹織物をさらに中央アジア・西アジア・東ローマに送っていたと考えられる。しかし筆者は唐に売られた馬に比べて対価として流入した絹が多すぎると感じていたが、輸出の中に大量の奴隷があったとしたら納得できるという。またソグドの胡旋舞を学んでサロンで気に入られた武延秀の逸話にもあるように、突厥宮廷の文化もいけていたと言える。またウイグルのソグド商人は絹馬交易を担いウイグルマネーで唐本土の金融資本を支配した。

 終章「唐帝国のたそがれ」では、、、筆者は中央アジアの大勢を決した関ヶ原の戦いは八世紀末のウイグルとチベットで行われた北庭争奪戦と考える。八世紀を通じて中央ユーラシアの真ん中にある中央アジアの覇権を争ってきたのは、東の唐帝国、南のチベット帝国、西のイスラム帝国、そして北のトルコ帝国(途中からはウイグル帝国)の四者である。西のイスラム帝国にはパミール声の余力がなく、東の唐は安史の乱で西域支配の手を緩めざるを得ない。残ったのは北のウイグルと南のチベットである。ウイグルは安史の乱以降に唐とは友好的だったのに対して、チベットは敵対的だった。チベットは一時的には北庭を襲撃しウイグルをモンゴリアまで退却せさるが、最終的にはウイグルが勝利し、唐が退場した中央アジア東部を南北に分け合う。
 821年ごろに唐とチベットが講和条約を結んだことはよく知られている。安史の乱後に唐とウイグルは密接な関係にあったので、ウイグルとチベットが講和を結んでいれば三国が会盟を結んでいれば大きな出来事なので筆者はその証拠を探していた。ペリオ文章の断片とサンクトペテルブルグにある敦煌文書の断片がぴたりと接合し、三国会盟の証拠になり、チベットの国境線まで判明した。ゴビ砂漠が三国の国境となっている。また関連してゴビ=アルタイ東南部のセブレイにカラバルガスン碑文があり、ウイグル語・ソグド語・漢語で書かれているが、筆者はこれを三国会盟をウイグルで記念したものと解釈している。漢王朝でも明朝でもゴビ砂漠は国境であり、国境でなかったのはモンゴル帝国・元朝・清朝だけである。
 ウイグルは830年代の終わりに自然災害と内訌につづき、キルギスの侵攻を許して崩壊する。西に向かったウイグル人たちは東部天山山脈に落ち着き、840年代にチベット帝国が内部瓦解し河西回廊から撤退すると、ウイグル族は南進し甘州ウイグル王国を建てる。ここから中央アジアのトルキスタン化が始まったとする。一方でソグド人はソグディアナがアッバース朝の支配下になりイスラム化してくるとソグド人の宗教的文化的な独自性が失われていった。西部天山の北麗には11世紀までソグド人集団が確認されているが、彼らはトルコ語を話しトルコ服をきていた。シルクロード東部のソグド人は西ウイグル王国、甘州ウイグル王国などの中で商業経済を支えるものや武人として生き残っていった。ソグド文字はそのままウイグル文字となり、ウイグル文字がモンゴル文字となって、モンゴル文字が改良され満州文字となっている。

 「あとがき」では、筆者は文明の発展の中で中央ユーラシアの騎馬遊牧民の重要性を確認し、西洋中心主義も中華主義思想も不要とする。また「世界史」に値するのは14世紀初頭の「集史」でありイスラム圏で生まれている。日本は明治維新以降に西洋中心史観をそのまま需要した。一方で明治体制への復古を願う刻主義者などは極端に日本民族と日本文化の純粋性を美化する方向にはしっているという。『民族も文化も元も全ては長い人類史の中で互いに混じり合いながら生成発展してきたものであって、純粋という名の排他的思想に学問的根拠は微塵もないと認識すること、これこそが人類の未来を切り開く道である」と筆者は信じているという。また世界史の教科書が肥大化しすぎているので西洋史を大幅に削減して、近隣の挑戦・北アジア・東南アジアの歴史と遊牧騎馬民族の動向についても記述をふやしてはどうかと提言する。

気になった点

 途中にゴビ砂漠がなくなっていた時期があったとあったが、そこのところを詳しく知りたいと思った。ゴビ砂漠が国境になっていたというのであれば、そのような地形の変化は国家の関係に影響すると感じた。
 言葉には興味があるので胡服についてや、洋服の起源・発展などは興味深かった。麺が小麦というのは知っていたが、餅については知らなかった。しかし、なぜ日本ではあれが餅(モチ)なのか。店舗の並びを”行”とよび、それが銀行の行になっているというのも知らなかった。
 ソグド人については奴隷貿易があったのは衝撃的だった。ソグド人がそれで儲けていたというのであれば納得できる。
 遊牧騎馬民族などの軍事国家は国を維持するために他国への進攻を続けなければならず、兵を休められず生産性が低いというのは興味深かった。国の結束が弱ければ弱いほど他国への侵攻を続けなければならないのは理解できる。

最後に

 序章から作者の思いが爆発したような書籍で楽しかった。何か上品な他人事な典型的な本よりも新しい視点を積極的に提案しているので刺激が多かった。冗長な部分もあるのでちょっと長く感じたりするかもしれませんが、中央アジアの歴史や脱西洋中心主義に興味がある人にもおすすめです!

遊牧民から見た世界史-増補版

 スキタイや匈奴など世界史に大きな影響を及ぼした遊牧民のことを知りたくなって手に取った。著者からの自分のバイアスがかかった歴史観を突きつけられて新鮮な読書体験だった。

本の構成

 第一章「民族も国境も超えて」ではまずアフロ・ユーラシアの地形をつぶさに見ていく。海に近い周辺部の湿潤な地方を除くと、内部は乾燥する地方があり、上から森林・森林草原・草原・半沙漠・沙漠と分けられている。東西に広大な地域が同じ気候に属し、草原から沙漠に遊牧民がいた。次に遊牧民の生活を見ていく。騎乗の技術やそれに伴う騎射の技術の発達し、騎馬遊牧民を産む。紀元前800年から18世紀の中頃までの2500年は騎馬遊牧民の時代で、遊牧国家は遊牧民だけの国家ではなく遊牧民以外をも含んだ民族を超えた国家だった。ただし国家と言っても近代の国家とは性質を異にしているもので、この国家という概念も本書のテーマである。また広くは西洋文明に規定された文明という型も文字を残してこなかった文化から相対的に見ていく。

 第二章「中央ユーラシアの構図」ではまずは広大な中央ユーラシアの大地を北側と東側と西側に分けて見ていく。北側のシベリアはアジア人が住んでいたが東に目を向けたロシアの支配が17世紀までに太平洋まで達する。東のモンゴル高原は東の興安嶺と西のアルタイと北のバイカル湖に挟まれている。南側は乾燥ステップの華北に繋がっているが、中華文明を産んだ乾燥農耕の土地である。このモンゴル高原は匈奴、東胡、鮮卑、柔然、高車、突厥、ウイグル、キタイ、モンゴル、ジュンガルなどの遊牧国家を産んだ大地であり、北側は森林と草原が入り混じっているのでここの放牧民は放牧狩猟民でもあった。西側はパミールで区切られるが、その東にある天山は南北を区切る。南は極度の乾燥地帯となり雪解けの水を頼りにするオアシスが点在する土地となるが、北側は緑が深く、肥沃なイリ川とその渓谷は遊牧民の争奪となった。この北側には中華政権が入り込めなかったが、東西のユーラシアのハイウェイは南側のオアシスを点々と進むいわゆるシルクロードではなく、天山の北側であった。1757年になって清の乾隆帝のジュンガル王国を倒して住民を皆殺しにし漢族の民を入植させ農耕地帯とした。パミールの南東にはチベットの高原があり、かつては王国がチベット仏教を権威として国をまとめ、チベット仏教は周辺に広まった。
 ユーラシアの西側はアム河とシル河に挟まれたオアシスが肥沃であり東西南北の交通と商業の十字路となって、諸勢力の焦点になった。古くはソグドと呼ばれる人々がいた。この辺りの土地はマー・ワラー・アンナフルと呼ばれるが基点としたクシャーナ朝、エフタル、十世紀からはトルコ系のガズナ朝、ゴール朝、14世紀からのトゥグルク朝、ティムール朝とそれにつづくムガル帝国について語られる。マー・ワラー・アンナフルの西に進んだイラン高原は痩せた土地だが文明が起こりモンゴル帝国時代にはイルハン国の本拠地となった。アケメネス朝には蛮族の地トゥーラーンに対して文明世界はイーラーンと呼ばれた。アケメネス朝は今知られている限り軍事・行政・徴税・交通・輸送の制度/組織を整えた世界史上初めての巨大国家であり、イーラーンはこの栄光を含んでいて、シャーはアケメネス朝由来の王の称号である。マケドニアの王はこのアジアの帝国に憧れて、はしからはしまで行進した。ギリシア文明のアジアへの影響というヘレニズムは虚像に近く、アジアのギリシアへの影響の方が大きい。アゼルバイジャン高原の北にはカフカズ山脈が南北の壁としてある。ザグロス山脈の西にはチグリス・ユーフラテスからシリアに達する。シナイ半島まで西アジアとしているが西洋からみた中東という故障が使われる。以上がユーラシアの西側の南方世界だが、シル河の北にはカザフ・ステップが続き大草原はヴォルガを超えて、ドン、ドニエプル、ドナウ河まで続く。この大草原は多くの遊牧民を育んだが、キプチャクハン国はこの地を本拠地とした。大草原はハンガリー平原まで広がり、ローマ帝国を恐怖に陥れたフン族はここを本拠地とした。巨大草原の北側には森林が帯状に広がっているが西北のすみにルースィという農民世界があった。ロシアは1552年にヴォルガ中流域のカザン、1556年に下流域のアストラハンを攻略するがキプチャクハン国の流れを汲む国家であった。カザフとカフカズを19世紀半に制圧し、マー・ワラー・アンナフルに達するのは1881年だった。そして清と同じように農民の入植をさせて遊牧民たちの土地は接収された。カザフで水爆実験をしたり、中央アジアで綿花栽培を拡大しアラル海は干上がりつつある。

 第三章「遊牧国家の原型を追って」ではまずスキタイを分析する。スキタイはヘロドトスの歴史の中でダレイオスの北進の敵として登場する。黒海沿いに北上する70万もの軍は攻撃すると逃げるスキタイを追う。スキタイは退却するごとに一帯の土地を焼き払う。次第に力を失う軍を矢で攻撃し、軍の損害が大きくなってたダレイオスはついに退却を決定する。この戦い方はナチスドイツに対するロシアの退却作戦を思わせるが、その後ダレイオスはスキタイには手を出さず、ギリシアに注力する。この後、ユーラシア西半では北にスキタイ、南にアケメネス朝ペルシアが並び立つ形成となった。従来は対ギリシアに対して東西対立が注目されるが、南北対立もあった。この後、ヘロドトスの記述を見ながらスキタイという遊牧国家について分析していく。ギリシア系スキタイが居たことから、民族ではないことが分かる。アレキサンドロスの北進については撃退したが、サマルタイにより西に追いやられ前三世紀ごろには解体したらしい。サマルタイも紀元後四世紀ごろにはフンに吸収される。スキタイの動物意匠に特徴がある青銅器文化があるがハンガリーやドイツまで影響が及ぶ。スキタイ国家とペルシア帝国という二つの国家パターンが生まれていることが注目される。ペルシア帝国の中核をなしたのは10の分族からなるアーリア系の遊牧民集団だった。両者の違いを産んだものとしては農耕文明を取り入れられた立地と、歴史にある。ペルシア帝国の前にはアッシリア、メディアという国家があり、ペルシア帝国は多核の連合国家であり王はその中を移動して統治した。また20州に分割しての分割委任方式や非人種主義、宗教への寛容、統一税制、幹線道路、駅伝制、貨幣経済と国家の中の原点がダレイオスの国家建設事業には含まれている。
 東方における遊牧国家の原型である匈奴は史記の中で詳しく書かれている。漢は劉邦から武帝までは匈奴の属国だった。匈奴は古くはオルドス地方に暮らす小集団だった。イラン系とも言われる月氏を除くといずれもトルコ系であり、西半はインドアーリア系、東半はアルタイ系の人々が点在した。東方の遊牧民は足で歩く集団で軍団としても弱かったが、紀元前四世紀後半には西方より騎馬技術が伝わり、急速に軍事化した。その頃に趙の武霊王は遊牧方式の騎射戦術を取り入れると共に騎乗に合う胡服を取り入れた。遊牧民の軍事化が中国統一を促した。中国本土にも遊牧民が暮らしていた節がある。周や秦も谷ごとに分散して居住する広い意味での遊牧民であったとする説もある。匈奴が一部族だったに過ぎない頃に秦が統一されるが11年で終わる。その後に項羽によるゆるやかな列強同盟である西楚ができるが騒乱状態に陥る。新しい時代の王は匈奴の太子であった冒頓(ぼくとつ)であったが彼の父殺しの逸話が語られる。まずは東胡を倒し、西の月子を討ち、南のオルドスを併合した。この後に漢王朝が成立ということにはなっているが、まだ広大な領国を保持した王も多く統一政権というにはまだ足りない状態だった。その一人の韓王信を山西に移封した際には韓王信は匈奴にくだって、そして晋陽を攻めた。劉邦は自ら兵を率いて迎撃したが、匈奴はいつわりの敗走をして平城に誘い込む。白登山に囲んで包囲する。包囲された劉邦は包囲して冒頓の正后に贈り物をして命を救われる。その後、漢は匈奴に公主を送ると共に毎年貢物をする。ここから匈奴国家の構造についての説明になる。漢帝国は内地と属領という二重構造になっていたが、匈奴国家は24人の万騎に率いられた24個の万人隊が左・中・右に分かれて一体を支配していた。東方部は朝鮮半島の北に達し満州を含む地域、西方部はタリム盆地・天山方面まで達する地域であった。中央部はモンゴル平原だった。匈奴の国家構造が以後2000年続く放牧民国家の源流となった。

 第四章「草原と中華をつらぬく変動の波」では漢は武帝の時代に入ると匈奴との50年戦争に入る。対匈奴作戦をつぎつぎと実行するが成果に繋がらないのでタリム盆地にあるオアシスを攻め、財源であったオアシス支配がゆらぎ匈奴の経済面の苦境が軍事面にも及び弱体化した。一方の漢も経済的に疲弊して住民は重税に苦しむ。結局は武帝が死ぬと漢側からの申し出により終戦を迎えた。その後、両国は対等な立場で和親し平和共存する時代になった。この農耕世界と遊牧世界が棲み分ける大枠ができる。一旦新によって対匈奴路線に戻るが敗れて元に戻る。前漢・後漢を通しておおむね匈奴と共存する時代だった。漢と匈奴は徐々に衰退をしていくが匈奴は東西に分裂し、東の匈奴はさらに南北に分裂し、南匈奴はオルドス地方に広がり漢から経済援助を受けながら周辺防衛を請け負った。一方で天災によって弱体化した北匈奴は一世紀の末に漢と南匈奴連合軍に攻撃されて、一部はシル河に達した。追われた北匈奴がフン族であるという説もある。
 次は晋の時代に浮上してきて南匈奴の末裔である劉淵という王子である。牧畜地帯である山西に小王国を形成していた。劉淵は冒頓の末裔で漢の劉邦の娘を冒頓に嫁がせていたために漢の血も流れていたプリンスの中のプリンスであった。漢文化の教養も武芸も備えていたがそのために危険論もあり洛陽に人質としてきていた。父の他界と共に山西に帰還した。その後、司馬一族が争う八王の乱が起こった。その混乱の中で山西匈奴集団は自立に向けて劉淵が大単干に推される。司馬一族の成都王に仕えていた劉淵はなんとか山西に戻り304年漢王の位についた。308年に皇帝を宣言するものの310年に他界する。この後いわゆる五胡十六国の時代となるがこの名称は唐時代の歴史書作成過程に作為的につけられたものという。

 第五章「世界を動かすテュルク・モンゴル族」ではテュルク・モンゴル族による東方の支配について語る。柔然の社崙は鮮卑の檀石槐いらい三世紀ぶりに草原を統一し、丘豆伐可汗(キュテレブリ・カガン)と名乗った。これがハン・カンの由来とされている。同じ頃の5世紀から6世紀半ばにかけてイラン系の言葉を使うエフタルとよばれる軍事集団が強大になった。エフタルは西北エンドに進出し仏教を圧迫されたとされるが、関係ないという説もある。そしてこの二つの集団の間に高車という匈奴以前の丁零に遡るとされるテュルク系とみられる集団による遊牧国家を起こる。この三国がならんだが、東の拓跋国家の北魏、西のササン朝ペルシアにはさまれていた。さらに6世紀半ば突厥が出現する。まずは高車を併合し、ついで北魏との戦いで弱まっていた柔然をやぶり、さらにササン朝とむすびエフタルを撃破した。またカスピ海の北側にいたアヴァールと呼ばれる放牧集団がいたがそれを駆逐した。ちなみにアヴァールはハンガリー平原に移動したが東方から来たマジャール族に飲み込まれる。そうして二十年も経たないうちに東のマンチュリアから西はビザンツ帝国まで広がる世界史上初めての巨大な政治権力が出現した。拓跋国家の北斉・北周は突厥の属国となった。その後北周は華北を統一するが亡くなり外戚の楊堅が実権を握り隋朝と改めた。楊堅は突厥を分裂に誘導し動きがとれないなかで南伐に打って出て589年ついに中華統一がなされた。しかし2代目で高句麗遠征の失敗から崩壊し、李淵・李世民が唐朝を建てる。おそらく成立当初は東突厥の属国であった。突厥内部の独立運動に乗じて東突厥を従わせた。青海地方の鮮卑系の吐谷民を屈服させ、アジア東方全体を支配した。これはテュルクモンゴル系と繋がりがある拓跋国家だから成し得たことだと筆者は言う。さらに3代目の高宗が政権を握ると西拓跋を制圧しパミールの西のイラン系の人々をも支配した。ただ唐の世界帝国も25年ほどしか続かなかった。またイスラームも勃興してきたがイラン高原の帝国の伝統の影響を受けた宗教を超えた生きていく形・文明形態であった。こうして東の唐帝国、中央に離合集散する突厥、西にイスラームという帝国が支配することとなった。
 徐々に国力に翳りが差してきていた唐と東突厥は協調していたが、東突厥はテュルク系のウイグル族を中心とする集団にたおれる。組織は変わらず支配層が変わっただけと見ることもできる。唐も中央アジアでアッバース朝に敗れたり、安禄山の乱により混乱しウイグルの援軍に助けられるが、地方政権の力が強くなり中央政権は無力化してくる。一方のウイグル族は中央アジアも制圧して東方世界の最強国として君臨する。経済の面でも唐とソクド人を使った貿易で利益を上げて遊牧国家を運営していく。しかし天災に起因する内乱を機に西北モンゴリアのキルギス連合がウイグルを倒すがキルギスは草原世界をまとめることができず政治的に混乱した。ウイングル族は中華本土の北境などに移動した。テュルク族は西に移動し、中東・西北ユーラシア・東インドでもイスラーム化したテュルク族が占めることになる。それはムガル朝やオスマン朝であり一千年に及ぶテュルク・イスラーム時代の始まりであった。旧ウイグル族の中の甘州に住んだものは牧畜と抽象を組み合わせた小王国を形成した。また西方に移動したものはカルルク族に吸収された。それぞれの国家は牧農複合型で通商国家でもあり多人種・多文化・多言語であった。支配者はテュルク語を使い、住民は漢語・ベルシア語、ソグド語、ティベット語を使った。パミール以西はイスラーム地域となっていてムスリム商人が活動していた。9世紀になるとアッバース朝の承認を受けたサーマーン朝が興り、イランが蘇りマー・ワラー・アンナフルがイスラム化してイスラム化したテュルク系の中東への進出を促した。サーマーン朝はテュルクの若者奴隷を教育して親衛隊を作ったが次第ににこのような白人奴隷が政治・軍事の実権を握った。シル側の東や北のテュルク族のセルジュール朝もアッバース朝の都のアッバースに入城した。こうして中東地域へも遊牧国家のシステムが導入された。
 東方の唐朝消滅後の華北ではテュルク系の沙陀族とモンゴル系のキタイ族が中心となり三百年の多様化の時代に入る。沙陀族は唐末の龐勛の反乱を鎮定し唐朝から李の姓を賜り、存在価値を高めた。その後に反乱軍あがりの朱全忠と軍事抗争を繰り返し華北を政治統一して唐と名乗った。その後は沙陀族内部で権力争奪が繰り広げられた。一方、長城線の北ではキタイ族が主役となった。安禄山の周辺で放牧していた集団だが強力な騎兵で知られていた。ちょうど十世紀の初めに耶律阿保機が小型の権力体を形成し頭角を表した。キタイの王が他界すると選挙交代制を廃止し、自らを君主として大キタイ国と称した。その後モンゴル高原に進出したり渤海国を滅ぼしたりした。2代目の耶律尭骨のときに沙陀が混乱すると援助して見返りに燕雲十六州を割譲させ、後晋となった沙陀はキタイの属国となった。後晋は独立しようとした時にキタイに倒されたが統治がうまくできず東に戻っていく。こうしてキタイ国家は東は日本海・マンチュリア全域、南は北京・大同一帯、西はモンゴル高原の半分ほどの広大な領域で、北宋との平和条約も結び巨額の年貢により潤った。キタイ国家は遊牧社会と農耕社会を取り込み都市と放牧の共存関係を築くだけではなく、全域に渡り城郭都市を築いたことで放牧社会のシステムとしてより持続可能な国家になっていった。十一世紀には成果が出現するが軍事大国のキタイ国家の属国であった。十二世紀の初めにトゥングース系の女真族の族長がマンチュリア東半の女真系集団を統合して大金国をつくった。この女真国家の攻勢にキタイ帝国は内紛でじゅうぶんにたいおうできずに首都が陥落すると自己崩壊する。女真国家は燕雲日北だけでなく北宋も倒した。キタイ帝国と北宋を引き継いだ金朝はキタイ国家の大半の者たちを含んだ多種族混合の複合国家となった。キタイの崩壊の際に王室の一人が逃れて中央アジアに西遼をを作る。十二世紀は東に女真族の金、中央アジアにキタイの西遼、その間に西夏、江南に南宋、西アジアにはセルジュク朝の諸国家という図式になる。

 第六章「モンゴルの戦争と平和」ではモンゴル時代を鳥瞰する。1203年はケレイト部のワンカンの地位を奪取したテムジンは1206年に即位式を行なってチンギス・カンと称し牧民戦士集団を率いて外征に乗り出す。まずは西部の大勢力であるナイマン部族を打倒吸収する。1211年から6年かけて金帝国を攻め金の力を半減させると共にキタイを接収した。キタイは金朝の軍事力の機動部隊をになっていたためキタイが寝返りが大きく影響した。その後2年の休養の後1219年から6年かけてマーワラーアンナフルを本拠地にホラムズ・シャー王国を叩いた。西征後、西夏打倒作戦に赴き興慶開城の三日前にチンギスは他界する。モンゴル・ウルスの中でモンゴル人は特別扱いされず95の千人隊で構成されていたが、キタイを接収しチンギス他界時には129になっている。テュルク系のホラムズ・シャー王国が崩壊し広い地域のテュルク系の集団がモンゴルに組み込まれる道が開け、テュルク系諸族を準モンゴルとして取り込んだ。モンゴルこうして広く仲間を増やして民族を超えた集団として拡大していった。
 モンゴルは1260年頃に変遷を遂げる。第四代モンゴル皇帝モンケの後の帝位継承戦争の中から出てきた人物がモンケの弟クビライであった。政権が確立したころには50歳となっていたクビライであったが、多人種・多言語・多文化のブレイン群を駆使して、かつてない新しいタイプの帝国建設を目指し、政治・軍事・経済・流通・生産・交通のさまざまな分野で変革を行う言わば第二創業を行った。それは軍事力を全面に出さず自由貿易・重商主義を推し進め、モンゴルを世界連邦にしていくことだった。南宋国を接収して、中国全土を縮図に収めた。海への進出も見据えて物流のターミナルとして巨大な新帝都の大都を造営した。草原の軍事力と中華の経済力にムスリムの商業力をプラスし、軍事を背景とした経済通商超大国と大きくシフトした。人類史上、商業に関わるさまざまなシステムや手形・証券、銀行・金融業・資本の運用、経営のノウハウは東地中海行きが他の諸地域を引き離していたが、8世紀なかばアッバース朝の出現によって東方にイスラームが拡大していった。商圏も拡大していったが、陸上ばかりでなくインド洋などの海にも広がっていった。南宋は貿易を取り締まったり利潤を吸い上げるだけのそしきであったが、クビライ政権は反対に政府主導で海外交易に乗り出すために、江南の海洋起業家・蒲寿庚と結託した。
 さらにムスリムやウイグルの商業経済組織であるテュルク語のオルトクは資金の共同拠出と国際経済活動に特徴づけられ事業規模も大きかった。現代で言うところの企業や国際的な企業グールプのような存在である。また各種の国家規模の大型プロジェクトを企画・立案・実行の中はムスリム経済官僚で、オルトクの出身者であり、クビライはオルトク群を政権内部に取りこみ国家管理の中においた。オルトクたちは国家が運営する交通や宿泊施設を准公務員として利用することができた。次は経済を動かす貨幣としての銀についてである。ローマやビザンツは金本位制でインド圏は金銀両用、中華圏は銅だったが古代ペルシアやそれを引き継ぐイラン文明圏は銀が流通した。四グラム、四十グラム、二キログラムと言う三段階の重量単位をつくった。また財政の観点では歳入の80%が塩引と呼ばれる塩の引換券による収入と10~15%が商税であった。政府は塩の専売で巨額の歳入を得ていたため、私塩と呼ばれた闇の塩を売る武装組織が反政府勢力となっていた。また塩の引換券が貨幣として流通していた。商税は最終的に商品を売った土地で3%程度の売上税がかけられて、国を超えた時の関税はかからなかった。大カアンに集められた銀はユーラシア大陸の帝室・諸王・族長にばら撒かれモンゴルに繋ぎ止める役割を果たしていた。そこから各中華王朝が農国型や牧畜型という観点からの分析をする。

 第七章「近現代史の枠組みを問う」では、、、19世紀後半から20世紀の西欧による戦争の世紀であり人類史史上もっとも野蛮な時代であった。それは陸と騎射の時代から海と火器の時代への転換だった。モンゴルなどが野蛮という考え方もあるが近代の西欧の方がよっぽど野蛮である。また歴史の学習では西欧優位の歴史を学び、西欧の海洋進出が東西を結びつけたというのは間違いで、少なくとも前一千年紀ころにはユーラシアの東西の連絡はあった。8、9世紀にはインド洋の東西が結ばれていた。また近年の経済万能の風潮もあり過去の軍事権力の要素を軽視する傾向がある。国家や民族も歴史上の生成物であり変質もするし、ほとんどの場合、国家が先にあった。民族も作為的であるし、少数民族も多数民族が作り出した国家という幻想の中で作為的に作り出されてたものである。ユーラシアというものも大きく括りすぎという考えもあるが地域に分けるもの現実に即していない。既存の世界史が語る構造・イメージ・概念などの枠組みを疑ってかかることが重要である。

気になったポイント

 匈奴の勢力範囲は、朝鮮半島にまで及んでいて、百済でも右賢王、左賢王という称号を使っていたというのは驚きだった。匈奴の影響を受けていて騎馬的なものもあったりして、崩壊と共に日本に亡命して吉備国や一部は関東にそして武士に、、とか妄想は尽きない。
 遊牧民を虐殺した歴史はおそろしく感じた。清が放牧民ジェンガルを根絶やしにしたという話やスターリンによるカザフ人の虐殺によって人口は半分にもなったという説など農耕民族の方が凶暴なのではないか。今の中国によるウイグルの迫害なども同じだ。
 国家の形についても興味深く読んだ。ダレイオス型の統治や遊牧民型の統治など。するとやはり日本列島での統治の形があったのではないかと夢想してしまう。ロシア語のキタイやペルシア語でヒタイといえば中国を表すという話も面白い。あのキャセイパシフィック航空のキャセイも中国の意味というのも知らなかった。それにしてもキタイとスキタイは似ている…。
 チンギスハンは戦闘をすることで一つの国に属するという意識を作った、というのは非常に納得できた。ローマなども始終対外戦争に明け暮れていたのは国をまとめるという意味もあったのかもしれない。モンゴルに対してキタイは体で勝負して、ウイグル人は多言語に通じて頭脳を提供したというのは興味深い。文化的な厚みがあったギリシア人的なポジションにも思えた。ウイグルにはどのような文化的な歴史があるかをもっと知りたい。
 シンドバットはシンドバッドがヒンドゥーバードというインド風という意味だったと言うのは知らなかった。マルコポーロもそうだと書いてあって、そういう話は聞いたことがあったがちょっと夢がなくなる。一人のひとであったほしい。

最後に

 ヨーロッパ史と中国史に挟まれて主役でなかったユーラシア歴史。そこに登場する諸民族に対する愛に溢れた濃厚な書籍だった。なんとか内容をフォローしていった程度で自分の中でもう少し深く考えるために学びを進めたいと思った。
 とにかく今までのヨーロッパからの世界史や、中国史とも違うユーラシアという視点からの歴史はさまざまな示唆があり、興味深い。極東のアジア人としてはぜひ読んでおく書籍であることは間違いないので、おすすめです!

ロシア・ロマノフ王朝の大地(興亡の世界史 14)

 そろそろロシアについて読んでみても良いかと読み始めた。キエフ公国のあたりから現代の最近の歴史まで網羅できたのは非常に有益だった。

本の構成

 序章では、1550年頃のモスクワ公国から植民政策を通して領土を拡大した歴史、ピョートル大帝によるヨーロッパ化など大きな流れをさらう。第一章「中世ロシア」では、ノルマン人によるキエフ王国の建立からリューク朝による統一までのロマノフ王朝以前の歴史をさらう。
 第二章「ロマノフ王朝の誕生」からは民主的なミハイルと専制的なアレクセイの時代を説明する。第三章「ピョートル大帝の革命」ではピョートルの時代のヨーロッパ化をさらう。第四章「女帝の世紀」ではエカチェリーナ時代の地方政治の整備などを主に語る。第五章「ツァーリたちの試練」ではナポレオンの進軍からクリミア戦争の敗北までをさらう。第六章「近代化のジレンマ」では、リベラルな思想を持ち農奴解放を行ったアレクサンドル二世の治世を取り上げる。第七章「拡大する植民地帝国」では中央アジア・極東への帝国の拡大を見ていく。第八章「戦争、革命、そして帝政の最期」ではニコライ二世が日露戦争・第一次世界大戦を経てロマノフ王朝の終焉に向かう様子を描く。
 第九章「王朝なき帝国」ではロマノフ朝の後のレーニンからゴルバチョフまでを解説する。つづく「結びに変えて」ではいくつかの作者がポイントをさらう。

第一章「中世ロシア」

 ノルマン人の移動により8〜9世紀ごろにキエフ国家をたてコンスタンティノープルと通商条約を結び交易して栄えたところから始まる。ノルマン人は少数派でスラブ人と同化した。キエフ太公ウラジミールはビザンツ帝国のバシライオス二世に反乱鎮圧を要請され、交換に妹アンナを妻にすることを同意されたが、その際にキリスト教への改宗をした。15の公国に分裂したキエフ国家は12世紀後半には事実上解体した。その中で交易で栄えた共和国のノヴゴロドが力をつけた。
 13世紀前半に東方のタタール人の攻撃に合い、略奪と殺戮により徹底的に荒廃させられる。信仰の自由を認められたが人頭税を始め厳しい税を課される。240年のモンゴル人のロシアの支配は団結を促したものと肯定的に捉える研究家がいるもののキエフの人口は数百世帯まで減少したなど都市を荒廃させたため文化的に200年も後退したと見積もられている。
 その後、地の利もあったモスクワ公国が勃興する。クリコーヴォの戦いでキプチャク・ハン国を敗走させた後、イヴァン三世はノヴゴロドに勝ちロシアを統一しツァーリを名乗る。国を失ったビザンツ皇帝の姪ソフィアを妻にし、正教ロシアがビザンツの遺産を引き継いだともされ、コンスタンチノープルからの技術者の流入や文化的にもイタリアとの交流も活発化した。次のイヴァン四世は専制を志向した特殊な皇帝だったがカザン・ハン国を制服し、タタール人貴族たちを従属させた。しかしイヴァン四世の子は世継ぎを残さないままなくなりリューリク朝は途絶えた。

第二章「ロマノフ王朝の誕生」

 リューリク朝断絶による混乱から始まり、1612年ゼムスキー・ソボールという全国会議が開かれ波乱があったもののミハイル・ロマノフが選出される。戦乱と混乱の時代には国民の支持が必要でゼムスキー・ソボールは毎年開催された。ポーランドとの和解が成立しミハイルの父フィラレートが帰国するとゼムスキー・ソボールは開催されなくなる。新軍が結成され西部の国境の町を取り戻そうとポーランドと戦闘になるがその中でフィラレートは命を落とし戦いにも敗北する。敗北の直接の原因がタタール人の侵入との知らせにより士族が戦線を離脱したことだった。これによりロシアの万里の長城であるベルゴロド線が20年かけて建設された。ミハイルがなくなり子のアレクセイが後を継ぐ。すぐに税制改革に反対した国民の一揆により改革を主導していた寵臣モロゾフの更迭を余儀なくされる。同時に1648年にゼムスキー・ソボールが開催され都市と農村の再編を促した。農民は移転の自由があったが士族には不利なものだったため、士族は移転の自由の禁止や不法な移転を取り締まりを認めさせ最終的には農奴が成立した。この農民問題が解決されたことと、士族の役割の変化と、都市民の中の富裕層が生まれ、ゼムスキー・ソボールも開催されなくなった。17世紀後半の軍政改革により士族的は地方をまとめる騎兵軍から将校になることで地方との関係が薄れ、地方はモスクワから派遣される地方長官による統治に置き換わった。貴族会議は残っていたものの人数が増し形式化し、アレクセイは専制君主として国を治める。
 ロシアが正教の正当性をコンスタンティノープルから引き継ぐという重圧からキリスト教の形式を正すことになって行ったが、土着の宗教形式を弾圧した徹底的なものだった。ある修道院が蜂起して軍と戦闘が行われた。また古い儀式を守り集団自決をした地方もあった。地方ではこの強引なキリスト教化に加えて地方長官の不正も重なり、1670年にコサックを主体としたラージン軍の反乱が起こるが政府軍に倒される。

第三章「ピョートル大帝の革命」

 1676年にアレクセイが亡くなるとアレクセイが再婚したナルイシュキナ家の子供として生まれたピョートルは後継者争いに巻き込まれるが、正妻の息子フョードルが亡くなり正妻の娘ソフィアをおいやり最終的に実権を手にする。軍事に興味があったピョートルは一度は失敗したものの1696年にオスマンの要塞アゾフを落とすことに成功する。1697年から250人を連れて大使節団をヨーロッパに送り出す。ただしピョートル自身もコッソリと入っていた。アムステルダムで船大工として働き、ロンドンに移動し造船所やその他博物館などを見学したり買い物をしたりして、ウイーンを訪れ、一揆の知らせを受け帰国する。その後、北方同盟で対スウェーデンの準備を整え宣戦布告するものの若いカール12世の奇襲を受け初戦で大敗北を喫した。カールはポーランドに向かい7年を費やし傀儡政権を建ててからロシアとウクライナで対峙する。7年の準備期間も幸いし、ウクライナの裏切りがあったものの首尾よく処理し、スウェーデン軍を全滅させる。そこでバルト三国を手に入れる。ピョートルの時代は戦争の連続だったために村単位の徴兵制や貴族の軍人化、人頭税の導入などを中央集権化が進められる。また強引なサンクト・ペテルブルグの建設、参議会の発足、教会の従属化、バルト海貿易ルートの開拓などが行われた。世継ぎがない状態で世を去る。ピョートルの時代はロシア人にもっとも誇りを感じる時代という。

第四章「女帝の世紀」

 まずピョートルの側近のメーンシコフが擁立された皇帝を介して支配するようになるが反発を買いすぐに終わる。名門貴族ドルゴルキーも同様に支配を試みるが最終的には失敗する。アンナの次にエリザヴェータが実権を握るが、跡継ぎとしてピョートル大帝の孫のペーターがエカテリーナ二世を妻とする。ピョートルはドイツ贔屓でクーデターで失脚させられ、皇后が帝位につく。コサックの反乱があり何とか鎮圧したが、再来を防ぐために地方の強化を急ぎ、県や群を増やして発展を促した。ポーランド分割に関わり、その後クリミアを併合し、クリミア視察旅行にも出かける。エカテリーナ二世のあとは息子のパーヴェルが継ぐが反発を買いクーデターで殺害される。
 第五章「ツァーリたちの試練」ではナポレオンの進軍からクリミア戦争の敗北までをさらう。

第五章「ツァーリたちの試練」

 即位したパーヴェルの子であるアレクサンドル1世は初期はリベラルな思想を持っていたが、統治の基盤を固めるために保守的な思想を採用する。ナポレオンとの戦いでは初戦では破れ、プロイセンとのイエナの会戦で対照しプロイセンと和平を結ぶ。ナポレオンのモスクワ遠征に備える中、1812年に両軍は動き始める。短期決戦を望んだナポレオンに対してロシアは後退し一度対決するが再度後退する。ついにモスクワからも後退し住民も避難する。ナポレオンが入ったモスクワが蛻の殻で、その後数カ所で火の手が上がり五日間燃え続け3分の2が灰になり、ナポレオン軍は焼け野原への野営を余儀なくされる。さらにゲリラ的な攻撃により今度はナポレオン軍が退却を余儀なくされるが、飢えと冬将軍で兵を減らす。最後はべレンジ川渡りでロシア軍の攻撃によりナポレオン軍は壊滅する。ナポレオン失脚の立役者となったアレクサンドルはウィーン会議をリードしてポーランド王国とフィンランド大公国を統治下においた。
 そのアレクサンドルは1825年の初めに48歳の若さで亡くなる。子の後継者がいなかったため生前に継承者を指名していたが本人に知らされていなかったために混乱があったが、結局は指名どおりにニコライが継承する。立憲制を導入させようという若い貴族将校たちは目論んで近衛軍に皇帝への誓いを拒否させようとしたがうまく行かず、軍が蜂起軍に一斉射撃をして56人が亡くなることとなり特別法廷では121名がシベリア流刑になった。ニコライは即位とともに検閲など治安の強化や専制肯定の教育・国歌の整備も進める。インテリの間ではロシアの後進性の優位という議論からビザンツからロシアが受け入れたものは愛と自由と真理で結ばれた共同体の精神だという議論につながる。そこからゲルツェンは共同体的社会主義の思想を見出す。
 貴族に不信感を強めたニコライは官僚の拡充を図り人数としても5倍以上になる。またピョートル時代からの伝統のヨーロッパの文化と技術に明るい人の東洋を進めた結果、30〜50%がドイツバルト系が占めた。経済方面ではモスクワでの起業や鉄道の導入が行われた。1843年から6年をかけてモスクワーペテルブルグの650キロが完成し、その効用が明らかになり1861年には1500キロに拡張している。農奴問題。対外政策についてはポーランドの憲法と軍を廃止し、ハンガリー革命を鎮圧したり強硬に対応した。エカテリーナ2世の時代に獲得した黒海の通商権を巡って、イギリスとフランスと対立し、クリミア戦争に発展する。ロシアの帆船は最新の蒸気船にはかなわず、一年近くの攻防で50万人を失い敗北する。ニコライはその最中に亡くなる。またこの戦争では徴兵制の他に国民義勇軍を募集したが応募した者の家族が開放されるという噂が広まり志願が増えて領主や地方当局との衝突が各地で発生した。ニコライの時代に進捗がなかった農奴問題が、クリミア戦争で顕著化した。

第六章「近代化のジレンマ」

 リベラルな思想を持ったアレクサンドル二世は農奴解放は待ったなしと1861年に農奴解放令に著名した。人格については無償、土地に着いたは有償とされて、結婚、裁判、売買などについて自由が与えられた一方、土地については国がお金を貸し付け領主から土地を買い、農民は国に対し分割ローンで返済する形となった。貸付は村単位で行われたので制限はあったが10年後には農民の3分の2は土地を買い戻した。一方で領主である地方貴族からは反感を買った。その他では情報公開、軍制改革、地方自治制度の整備を進めた。一方でポーランドの民族解放の蜂起には強硬に対応した。その最中1866年に銃撃されたこともあり、リベラル路線から治安への強化にシフトしていく。
 地方自治組織ゼムストヴォでは教育、道路、保険、医療などで成果を上げて、医者や教師の数は増えた。ゼムストヴォで活動する人々には聖職者が多かった。1874年夏頃に技師・医者・教師などインテリたちが農村に入って革命と社会主義について宣伝を初めたが、農民には理解されず政府には厳しく取り締まり1500人の逮捕者が出て失敗に終わった。二年後にこの運動を引き継いだ若者は自らをナロードニキと名乗った。この組織は三年後に分裂したが、皇帝暗殺によって政治革命を目指す組織「人民の意志」はが生まれた。またこの運動には女性が15%ほど占めていて女子の高等教育が西欧よりも先進的であったという背景がある。1870年代は異常な社会的緊張につつまれていたが、78年には市長狙撃事件がおこる。皇帝暗殺も79年から二年間で7回も暗殺未遂事件に遭遇したが、1802年には遂に「人民の意志」党員に狙撃され絶命する。彼の子供アレクサンドル三世が即位して事態の収集にあたる。人民の意志の関係者6人が公開処刑されるとともに大学の自治の制限や高等女学院の閉鎖などの措置がとられ検閲も強化された。そんな中でアレクサンドル三世の暗殺未遂事件がおき10月革命の指導者レーニンの兄であった。皇帝暗殺に関与した組織にユダヤ人がいたと公表したあとからユダヤ人攻撃が増えた。ウクライナでは血なまぐさい殺戮を引き起こした。また地方を活性化したゼムストヴォも制限され地方司政官により社会の引き締めが図られた。
 農奴解放は専有農民を使っていた工場では一時的な停滞をもたらした。1860年代後半から工業化が本格化し、鉄道は65年に3800キロだった鉄道が83年には24000キロに達した。また65年に3万人だった民間労働者は四半世紀語には25万人に達した。また農奴解放は出稼ぎ農民を生んだが、彼らは都市に住まずに夏には農村に帰った。その動きは家族制度に影響を与え、家父長制の大家族から核家族に変化していった。モスクワは商人の街だったが敬虔な正教徒でだったので寄進や寄付などを積極的に行った。貴族は資本家的経営者になれたものは一握りで中小の貴族は雇用などで細々と農業を続けた。また貴族から軍人や官僚になる特別な近道も失い都市で専門職業人として暮らした。

第七章「拡大する植民地帝国」

 中央アジア・極東への帝国の拡大はカフカス地方への拡大から始まる。エカテリーナ二世のころからクリミアに続いてカフカース地方への侵略を進めるがイスラム教徒の山岳民族の抵抗が終わることはなかった。1834年に宗教指導者になったシャミーリのもとで25年に渡る抵抗が続いたが1857年の総攻撃によって遂にカフカースを平定する。アゼルバイジャンはイランと二分するがバクーで石油産業が栄える。
 中央アジアにも進出し1847年にカザフスタンを併合する。1881年には中央アジアを制圧した。中央アジアの綿花栽培が鉄道と結びつき発展し、アメリカの南北戦争で暴騰した綿花の供給源になった。シベリアにも植民が進み10人に9人だった先住民が1905年には10人に9人がロシア人になった。イルクーツクの商人は中国との貿易で茶の文化をロシアに広めた。1891年にはシベリア鉄道が着工され1901年にはバイカル湖を船で渡るがモスクワーウラジオストークを13人で結ぶ鉄道が完成する。政府は移民を促すために海路を利用すると共に税金の免除や移住費を負担するなど積極的に対応した。

第八章「戦争、革命、そして帝政の最期」

 ロマノフ王朝最後の皇帝であるニコライ二世は1890年に世界各国をめぐる旅に出たが日本で刀で襲われ日本での予定を打ち切り、シベリアを数カ所回り帰途につく。その後にアレクサンドル三世が倒れると皇帝を継ぎ、すぐに結婚する。経済政策では1890年代はヴィッテを頼るが、工業化は農業の衰退を促し、町に浮浪者や乞食が溢れたことからヴィッテを解任する。そんな中でマルクス主義が広まっていくが、1903年のユダヤ人が殺害され家が破壊された事件もあり、帝政に反感を持ったユダヤ人がマルクス主義の活動に参加するようになる。
 日露戦争が開始される中で教会司祭に率いられた嘆願書をもったデモ隊が武力で鎮圧される血の日曜日事件が起こり、ニコライ二世のイメージが悪化する。日露戦争は日本海海戦で敗北し戦況が決定的になった。講和はヴィッテが主導しサハリンの半分を割譲するという小さな損害に抑えた。反専制の流れは止まらず国会開設のために選挙が行われるが皇帝側は第二の議会を作って対抗する。農業の生産性低下に対応するためにストルイピンは一揆の主体である共同体の解体と、自主性を引き出す個人農業の推進のために1906年に個人の私有化を認める土地改革が行われた。彼は5年後に銃撃され死ぬ。
 ニコライ二世の即位以来、ロシアの近代化は進んでおり穀物輸出も世界一で工業生産も4倍になり、文化的にも各方面で逸材が活躍した。そんな中でロマノフ朝300年記念祭が行われたが、1914年には第一次大戦が始まりニコライ二世は総動員令を発するが物資の不足になやませれる。一般市民にも大きな影響が出て配給制が敷かれる。1917年に女性労働者の労働に対するデモが反皇帝デモになり再び軍による鎮圧を試みて150人以上が倒れるがこれが労働者代表による臨時政府樹立の革命につながりニコライが退位しロマノフ王朝が終わる。

第九章「王朝なき帝国」

 47際のレーニンが帰国して土地を国有化して農民に委ねるボリシェヴィキ革命を始める。土地に関する布告が出て10月革命が達成された。穀物供給を拒否した共同体の富裕農民たちには労働者舞台を差し向けて強制的に挑発をした。列強の軍事干渉も始まる。内戦になりつつある。新政府首脳は皇帝一家を銃殺した。赤軍が志願制で結成されたがドイツ軍の信仰が始まると徴兵制になり、54万人に達する。レーニン自身も標的になり反革命の白軍もモスクワに迫り農民軍でかろうじて防いでいた。1920年末には内戦は落ち着いた。一方で国外脱出する文化的エリートは150万人に達した。またこの混乱の中でも共産主義の理想が追求され、計画経済も開始される。ソヴィエトが連邦化して参加する国を増やした。
 レーニンは参加国の平等を重視したが後を継いだスターリンは中央集権的な体制を目指した。工業製品輸入のために穀物輸出を増やしたが、国内の穀物は少なく穀物危機がおきた。これを解決するために集団農場により農民を拘束し生産性をあげようとした。また大学も教育を制限され、教会の文化も破壊され修道院や聖堂も閉鎖された。政治面では反対派や反対派と目される人が4万人以上も半数が逮捕され銃殺され大テロルと呼ばれる事態を引き起こした。1941年にナチスドイツがレニングラードを包囲したが二年間耐え、最期にはベルリンに入りナチスドイツを破ったが、2700万人という大量の犠牲を出した。
 1952年にスターリンが倒れると、ウクライナ生まれのフルシチョフは頭角を表し、スターリン批判を行い大テロルで標的となった人の名誉回復を行った。1957年には人工衛星の打ち上げ成功で世界を驚かすできこともあったが、アメリカには生活水準は及ばず生産力で追いつこうと七カ年計画を策定した。穀物生産もあげようとするがうまく行かず1964年に職を解かれる。ブレジネフが第一書記になっても穀物生産はアメリカの三分の一で、人々の無気力・無関心やアルコール依存による労働規律の低下などが顕著化してきた。1980年にオリンピックが華々しく開催されたものの事態は好転せず1982年にブレジネフが亡くなる。短命政権が続いた後に1985年にコルホーズ農家で生まれたゴルバチョフが党書記長となり立て直しと情報公開を推進する。1986年にはチェルノブイリの原発事故が起こる。社会の民主化を進め1988年には宗教政策を改め、過去の政権の宗教政策の誤りを認めて千年祭を境に信仰が公然となった。経済が混乱し貧しいままの15の共和国ではゴルバチョフ批判があり独立の動きがあった。1991年クーデター騒ぎがあり12月にはゴルバチョフは職を辞してソヴィエト連邦は終了した。

「結びに変えて」ではいくつかのポイントをさらう。まず社会と民衆によりフォーカスして書いたこと、ロシアの拡大政策により200もの民族がいた多民族国家であったこと、国家の中枢には非ロシア人が少なくなかったこと、植民政策により人口圧がなく農業革命が生まれなかったこと。筆者は、欧米と比べてタタールのくびきによる都市の衰退によって都市文化が育まれなかったと推測する。

気になったポイント

 まず確認できたのはロシアのもとのキエフ王国が交易を得意とするノルマン人由来だったことである。しかしタタール人のキエフ攻撃でその文化は失われてしまったのかもしれない。そしてタタール人を防ぐためのベルゴロド線はロシアの万里の長城と書かれていたが、騎馬民族対策で東西に壁があったのは興味深い。

 士族統治からの中央政府の地方長官による統治へ転換が描かれているのは興味深かった。どの帝国でも同じような地方vs中央のような構図があり、中央集権化していくのは難しいと感じた。

 ノーベル賞のノーベル家はダイナマイトを開発した一人の人がいたのだと思っていたが、ロシアの油田事業に参入して技術的に様々な新しい方法を取り入れつつ利益を上げていたのを初めて知った。科学的技術的な視点と商業的な才覚をもった類稀なる一族だったのだと気づく。

 フランス革命も大変な犠牲を出したが、ロシアの共産主義革命も死亡者数だけでなく文化的破壊も含めて甚大な犠牲を出したのだとわかる。ピョートル大帝の革命の方は、明治維新と似ているように感じたが、犠牲がすくなく済んでいる。革命というよりも維新だったのかという印象。

最後に

 ロシアというと全体主義的で領土を拡大していった帝国というイメージがあったが、リベラルな思想をもった皇帝などによってリベラル方面にも改革がなされていた時期があったことなどを知ることができて有益だった。タタール人の攻撃の教訓から防衛を軸としている国家運営というのは理解できるが、それだけで植民国家のすべてを理由づけるのも少し無理があるとは思う。とはいえ中国もロシアも長城を築くほどタタール人に悩まされていたのは同じである。中国もどちらかというと全体主義的だが内部が他民族でないのはロシアとは違うと感じた。

 まだまだ理解ができないことがたくさんあるがロシアについて初期から最近までの歴史を皇帝だけでなく民衆などの反動なども含めてある程度みることができたのは貴重だった。ロシアについて理解したい人にはおすすめの一冊です!

イタリア海洋都市の精神(興亡の世界史 08)

2008 陣内 秀信 筑摩書房

ローマ人の物語も読み終わったので、イタリアも読んでも良いかなと思って、手にとった。

 本書はイタリアの海洋都市、ヴェネツィア、アマルフィ、ピサ、ジェノバを都市の建築の観点から読み解く。各都市を歩きまわって建物や広場をつぶさに観察していく手法はまさに観光しているような臨場感があって心地よい。それぞれの都市は国家として西ローマ帝国滅亡以降にゲルマン人などの進出を恐れて、山や湿地に囲まれ海に開けた場所に人々が逃げ込み、主に交易で発展し富を蓄積した。
 また「海から都市を見る」ということもテーマにしていて、海から都市にアプローチしていた当時の人と同じように海上から都市を見ていくことも強調している。たしかに航空機はもちろん陸上交通も今のように堅牢なものでなく、海は国と国を遮るものでなく繋いでいる道だったと考える方が自然だ。

 まずはアドリア海の花嫁・ヴェネツィアの探索から始まる。「水の都」と言われているのはしっていたがラグーナ(潟)の島に作られた街という基本的なことも知らず、地図を見ると本当に島であるのは驚いた。海と近い文化なので本書で触れられている「海との結婚」という土着の海洋信仰についても古代から海洋民族だったように思え、1000年続いたヴェネツィアの基礎を感じた。街の成り立ちやヴェネツィア共和国の発展の説明の中ではオスマン帝国などイスラーム文化圏との交流による文化の影響は強調される。建物にもその影響が確かに残っているのも見て取れる。一方で輸入していたイスラーム圏の工芸品をヴェネツィアで生産できるようになり工芸品の産業も発展した。
 その後ヴェネツィアの中を歩いていく。不思議な形をしたサンマルコ広場、メインストリートのカナル・グランデ、交易の中心になっていたリアルト市場、外国人の交易の拠点であったフォンダコ、ユダヤ人地区のゲットー、造船所のアルセナーレ。それぞれをつぶさに観察していく中で、商売を保護した独特な文化や外国人に寛容な姿勢が垣間見える。

 次は険しい崖がせまる渓谷に作られた都市アマルフィに移る。まずは著者と地元の歴史家ガルガーノ氏との出会いから始まるところが良い。その後5世紀くらいにゲルマン系の異民族から逃れるために街が作り始められ、交易により力をつけ七世紀ごろにナポリ公国から独立すし1000年頃に最大の繁栄を誇り、12世紀前半にノルマン人の攻撃により国家として終わりまでの歴史が語られる。その間に技術にも寄与があり、羅針盤・海法・製紙技術などの改良や普及に貢献した。その後に海中に沈んだかつての防波堤、街に残るフォンダコ、積層的に増築されたアルセナーレなどが語られる。公共エリアでは間口の狭いドゥオモ広場と大聖堂の歴史、船乗りの壊血病予防に使われたレモンの栽培の説明が続く。
 続く低地の商業エリアの説明では中庭を持つ個人邸宅ドムス、高台に立つサンピアジオ教会、アラブ式の風呂、メインストリートと順番にフォーカスされていくが、一階の店舗の上にある住宅へは脇にある階段から入るようになっている構造の説明は立体図もあり分かりやすく非常に興味深かった。脇に入る階段もデザイン的に建物に埋め込まれているようになっているというのも観光にただ行ってもよく分からなかったかもしれない。また積層されていった石造りの建物とその様式によって時代を知ることができるのは驚いた。そして斜面に発達した街を登っていき、テラスのある住宅や渓谷の向かい側の眺望などを紹介していく。最後に現代のまた脚光を浴びているアマルフィの紹介で終わる。

 次は川辺に栄えた海洋都市ピサ。ローマ以前に遡る都市の成り立ち、11世紀には大きく発展し、アラブ勢力・ノルマン勢力やアマルフィと競ったりして、最終的にはジェノバに海戦で敗れ、地中海の覇権を失うまでの歴史をおさらいする。その後、アルノ川沿いのルンガルノを歩き、ヴェネチアに似ている構造や川沿いで船が荷揚げできる構造についても語られる。また建築物に注目すると、徐々に高層化していて搭状住宅と呼ばれる4層5層と高層化した住宅の石とレンガで建てられた住宅や、メディチ家に支配されていた時代の新都市リヴォルノや造船所がある。運河沿いのルンガルノは機能が変わりパラツィオが並ぶようになる。最後に今も憩いの場として利用されているアルノ川と、守護聖人聖ラニエリの宵祭りに触れて終わる。

 最後の都市はコロンブスを排出した都市ジェノヴァである。港町ジェノヴァを研究するポレッジ教授・ジェノヴァの都市計画局長を努めていたガブリエッリ教授との出会いから始まり、カステッロ地区のジェノヴァ大学から見ていく。廃墟となっていた地区を再生するために大学の建築学部を移転するという発想は驚かされる。海に張り出して市庁舎として建設されたパラッツォ・サン・ジョルジュの中を見学する。ジェノバの歴史を簡単にさらう。十字軍での活躍でアンティオキアに居留地を得たジェノヴァは、地中海の交易を大きく伸ばし、協力関係にあったピサを打ち破り繁栄をしていったが、ヴェネチアとの抗争を繰り返しコンスタンチノープルが陥落して衰退していったが、カトリック世界のメイン銀行として金融業で生きながらえ、最終的にはサヴォイヤ王国に組み込まれる。
 港に歩いていくとポルティコと呼ばれるアーケードのある建物が800メートルも続き小さな店舗が集まる。建物の上部は住宅になっていて搭状住宅として建物が高く城壁の役割をしていたという合理性には舌を巻く。ポルティコには現在も魚・ラジオ・コーヒー・鍵・携帯電話など様々な店舗があるが、かつてはあらゆるものが手に入ったという。過去の桟橋が発掘されたり、港の入口を示す灯台も再建されり、歴史を重視する姿勢が見られる。世界文化遺産に登録された高台のパラツィオと歴史的な建造物を活用しつつ再生が進む古い港を見て、ジェノヴァを後にする。その後ヴィーナスを祀るジェノヴァの要塞都市ポルトヴェーネレにて、海沿いに要塞化のために建てられた搭状住宅を見る。

 最後は4都市の衛生都市を回る。1つ目はイタリアのプーリア地方のガッリーポリ。古代ギリシアの衛星都市であったが、17~18世紀にはオリーブオイルの生産で富を築いた。城壁に守られた迷宮的な都市には富を築いた資産家が建てた格調高いパラッツォが特徴的だ。2つ目はアマルフィ・ヴェネツィアとも深い関係があるモノーポリ。アマルフィ人が建てた教会やヴェネツィア人が作ったカフェなどがあり、マリア信仰が深く、聖母マリアが海から到着する祭りもある。ギリシアに移動して3つ目の都市はヴェネツィア時代はレパントと呼ばれていナルパクトゥスで、ヴェネツィア人が作った旧港がある。4つ目の都市ナフプリオンも古代からの歴史があるがヴェネツィアやトルコに侵略され高台には要塞がある。その後クレタ島の2都市ハニア・イラクリオンでヴェネツィア時代の足跡を追う。 

 研究者は文献を追ったりするタイプと実地の調査をするタイプの2種類がいて、自分は現地に赴くタイプの方が圧倒的に好きだが、著者は実地の調査をするタイプで各章とも臨場感があって非常に楽しかった。地元の人とのつながりやお宅に訪問したりと貴重な体験が綴られている。そこまでできなくても行って見てみたい。どの都市にもとにかく行きたくなる!各都市も自治を失ったりもしているが、人や文化が途切れたわけではなく、その中でも発展を続けた様子も描かれていて心強い。ヴェネチアやアマルフィも今も発展を続けているに違いないが、どの都市も歴史的な事物を取り入れながら発展していってほしい。
 仁和寺にある法師にならないように、イタリア旅行の前に読んでおいた方が良い一冊かもしれないです!

リバーライトのフライパン

リバーライト 鉄 炒め鍋 フライパン

 フライパンは今まではテフロンのものを使ってきた。しかしテフロンを食べているという話や、テフロンにはPFOAという体に残存する物質が使われているという話も聞いて、PFOA対応したテフロンフライパンを買い直そうと探していたが、どれが良いのかわからない。

 一方で鉄のフライパンでも良いのではないかとも思い出してきた。鉄のフライパンは以前に使ったことはあったが使いにくく、使い続けるモチベーションもなかったのでやめてしまった。今回は鉄のフライパンだと鉄分を摂取できるという話もあるので、頑張ってみようと買ってみた。

 結論としては買ってよかった!多少の扱いづらさはあるが、セラミックのフライパンやハゲかけたテフロンのフライパンよりは使いやすい。冷凍餃子には一時苦労したが始めに長めにやくことでクッツキ問題はクリアーできた。野菜は問題ないが、肉などはあまり温度を上げなければ特に問題なくやける。

 唯一まだクリアーできていないのはやきそばやチャーハンなどの穀類系。どうしてもくっついてしまう。もう少し温度を上げればいいのか油を増やせばよいのか分からないがまだうまくできない。けれど頻度は高くないのでそんなにストレスにはならない。

 今のところ手入れをしてフライパンを作っていっている感じもここちよい。ということで、総合して去年で一番良い買い物をしたと感じている。フライパンに迷っていて少しは時間がある人はぜひ鉄のフライパンに挑戦してもらいたい。長期的には体にもいいはず!

太古からの啓示

2022 Netflix

 古代遺跡に惹かれて見始めたが面白くて2,3日で見てしまった。

構成

 失われた文明の謎を追うグラハム・ハンコックがその証拠をもと求めて世界をかけめぐる。インドネシアのグヌンパダン遺跡、メキシコのチョルーラの丘、マルタ島の巨石神殿、ビキニ沖の海底の石造物、トルコの巨石のギョベクリテペ遺跡、アメリカのバティポイントの遺跡、トルコのデンリユグの地下都市、北米大陸の洪水の跡。古代の遺跡たちをまわり、闇に包まれたその遺跡が意味するものを解明しようとする。

気になったポイント – 大洪水

 神話を重視している姿勢に共感したが、各地に伝わる神話にある共通性に注目していたのは興味深かった。ノアの方舟で有名な洪水の伝承はいろいろな場所にあると聞いたことがあり、実際に洪水の跡も発掘されていると聞いていたが、それがヤンガードリアス期の海面上昇と結びつけているのが真実味があった。

最後に

 ムー大陸があったとは思わないし、古代に現代を超える文明があったのは簡単に信じられないが、とにかく古代には現代人が思っているよりも高度で長い歴史に支えられた文明があったと思う。神話や古代遺跡が好きな人にはおすすめです!

還魂2

Netflix 2022

パート2が出たということで主人公は変わっていても期待して見た。1ほどではなかったが1から出演している俳優たちが盛り上げてなかなか面白かった。

登場人物

 チャン・ウクはチャン家のお坊ちゃん。3年前にムドクに殺されたが、体に宿っていた氷の石の力で蘇った。氷の石の力で還魂人を退治するため、「怪物を捕まえる怪物」と恐れられている。チン・ブヨンはムドク(ブヨン、ナクス)の身体を湖から引き上げ、ブヨンの真気を使って治療した。容姿はナクスに変わっており、過去の記憶がなくなっている。

物語の始まり

 シーズン1から3年。氷の石の気を得たことで強大な力を得て周囲から腫れ物のように扱われいる。孤独の中で、その力を還魂人の討伐に捧げている。ある日、還魂人を追って鎮妖院に侵入するが、そこでチン・ブヨンに巡り合う。ウクは自分がしたいことのためにブヨンと結婚することを画策する。

テーマ

 運命の赤い糸のようなものだろうか。容姿が変わっても魂が同じであれば、お互いに気づいて惹かれ合っていく。

最後に

 シーズン2ということもあって、いろいろな制約があって、物語も若干強引なところもあったが、ハッピーエンドで終わってスッキリとした。シーズン1を見た人は2も見てスッキリするのがおすすめです!